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「あなた! あの子が帰って来た!」
家へ戻るなり、弾んだ声の妻が玄関に飛び出してきた。
「あの子?」
「私達の子よ!」
そう言いながら、そっと自分の下腹部を撫でた妻の仕草に言葉を失う。
妻の内に宿った待望の我が子。その子があっけなく天に帰ってしまったのは先月のことだ。
その日以降妻は落ち込み、すっかりふさぎ込んでいたのだが、今の妻はとびきりの笑顔で俺を見ている。
その様子にどうしようもなく胸が痛んだ。
思い詰めすぎて、ついに心が病みんでしまったのか。
かける言葉を失って立ち尽くしていると、妻が俺を手招いた。それに従い近づくと、頭を抱かれ、腹に押し当てられた。
その瞬間、俺の耳に響いたのは。
トクン、トクン…はっきりと脈打つ鼓動の音。
仰天して身を起こすと、またにっこりと妻が笑む。
新たに妊娠…いや、身に覚えがないし、そもそもあれからまだ一月足らず。仮に夫婦の営みがあったとしても、心音が聞こえるような状態の子供が宿っている筈がない。
「とりあえず、医者に行って診察してもらおう」
混乱しながらも精一杯まともなことを口にし、俺は妻に、先月まで通っていた産婦人科医院に連絡を取ってもらった。
すぐに来院するよう言われ、俺は妻と共に医院へ向かった。
先生が妻の腹に聴診器を当て、驚いた顔で首を捻るその後、すぐにエコーがかけられ、胎内の写真が撮影されたのだが…妻の腹の中には何もいなかった。
胎児不在のエコー写真。それなのに妻の腹からは、以前聞いたのとまったく同じ、小さな心臓の音がする。
今、妻の体に何が起きているのか。医者さえ戸惑う状況に俺の理解が追いつく筈もなく、俺達は夫婦揃って狼狽えるばかりだ。
小さな鼓動…完
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