都内泉質ナンバーワンの温泉に行った日のこと

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 ふと気づくと、浴槽の奥の左端の角に痩せた彼女がいた。目を閉じて(うつむ)いて。  気配(けはい)なく入ってきて静かに浸かっていたのだ。  そこが彼女の指定席なのだろう。  彼女はまだ若い。老人や中年という感じの顔ではなかった。  顔を凝視するのは失礼なのでちらりとしか見てはいないが、頬も痩せこけてはいたもののその顔に(しわ)は認められなかった。  三十代、もしかしたら二十代なのかもしれない。  死ぬには早過ぎる。生をあきらめ切れないだろう。  何としてでも生き続けたいことだろう。  おそらく一日中、彼女はこの天然温泉の浸かったり上がったりを何度となくくり返しているのだろう。  生への執念で。  おそらく開館時刻から閉館時刻まで。  この都内ナンバーワンの天然温泉の効能に一縷(いちる)の望みを託して。  だがこの天然温泉の効能に「ガン」はないのだ……。  それでも何かに(すが)らずにはいられないのだろう。  病に効くという神社仏閣へのお参りもしているのかもしれない。  お守りもたくさん持っているのかも。
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