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プロローグ
夏の通り雨が過ぎ、町には再びの静寂が戻った。雲間から覗く空は洗浄されたように青く、降り注ぐ陽光はパライバトルマリンのように透き通っていた。雨に洗い流された朝の町を、気持の良い日差しを浴びながら自転車で駆け巡る。町には人気も無く、通りを歩くのはアバラが浮き、痩せ細った野良犬ぐらいなものだった。アマゾン川沿いの町、アマニェセルは、まだ浅い眠りの中にあった。
水溜りが広がる道を駆け降りる。タイヤは泥水を巻き上げ、新品のスニーカーを汚す。等間隔に現れる民家は平屋の一階建て、その多くは亜熱帯地域によくある高床式になっていた。板材を貼り合わせた簡素な作りで、材木は長年雨に打たれ、斜めになっている物や折れている物もある。漁師や農家、季節労働者が多く住むこの町は、住居の修繕にさえ事欠くような貧乏人ばかりが住んでいた。
アマゾンのジャングルを切り開いて作られた辺境の町。自然が豊かで、ボサノバのようなゆったりとした時間が流れている、この町はどこまでも退屈だった。でこぼこ道にタイヤを取られ尻が痛む度に、地面に放置された電線を見る度に、年老いた老人達の歯抜けの口元を見る度に、腹の底から怒りが込み上げた。目に映る全てを壊し、地面に叩きつけ、蹂躙したい衝動を感じた。こんな美しい青空が広がる雨上がりの朝には猶更、木々の葉先が緑色の雫をつける麗らかな日和には猶更。美しい物こそ、残酷に叩き潰し、破壊し尽くしてしまいたかった。
通りを抜け、隣町へと続く一本道へと入る。道の両脇に生えた椰子や棕櫚、亜熱帯の植物達がそよ風に揺れている。雨雲が過ぎ去った空からは、バーナーのような強い直射日光が地面に降り注いでいた。木々の葉っぱに反射した光の粒はまるで点描画、その輪郭を際立たせ、光輪のように白く発光させていた。
一本道を少し入った先に拓けた場所があった。壊れた柵の向こうに見えるのは、荒れ果てた田畑と無人になった廃墟だった。以前、ここには人が住んでいたが、数年前に起きた台風の影響で土地が浸水し、家も田畑も大きなダメージを受けた。住民はこの地を手放し、別の町へと移って行った。それ以来、家は廃墟となり、田畑は荒れ果て雑草が伸びるばかりとなっていた。
自転車を停め、倒れた柵の間から敷地内へと入る。辺りは草木が生い茂り、其処此処に大きな水溜りが広がっていた。家は一階建てで、青く塗られた建物の下部は色が抜けて灰色に変化していた。おまけに、柔らかくなった地盤の影響で柱や玄関、家そのものが斜めに傾いていた。意地悪な狼の一息で、あっという間に吹き飛ばされてしまうほどに。
割れたガラス窓から室内を覗く。中は荒れ果てた状態で、天井は落ちて断熱材が内臓のように外に漏れ出していた。壁も剥落し、床は抜けて雑草が伸び放題になっていて、とても人が住める状態では無くなっていた。
建物をぐるりと回って裏手へと向かう。裏庭は建物が目隠しとなっていて、通りからは見えないようになっていた。以前、町の子供達がここを秘密基地にして遊んでいたのだが、倒壊を心配した大人達が遊びに行かせないように注意していた。この廃墟には怖いファンタズマ(幽霊)が住んでいて、言う事を聞かないとインヘルノ(地獄)に連れて行かれるよ、と。その脅しが効いたのか、ここで遊ぶ子供達いつの間にか居なくなった。言わば、ここは忘れ去られた秘密基地だった。
建物の裏手、一人の男の子が地面に腹這いになり、車の玩具を手にして遊んでいる姿が見えた。枝の先で道路のような線を引き、そこに車の玩具を走らせている。川の近くに住んでいる五歳の少年だった。大きな犯罪――誘拐やら殺人やらが一度も起きた事のないこの町では、小さい子供が一人で遊ぶ事は日常茶飯事だった。犯罪率が高いブラジルであっても、それが許されるぐらいアマニェセルは危険に関して無防備で無頓着だった。
「ダヴィ、何をしてるの?」子供を刺激しないように、優しく声を掛ける。「ここには、一人で来ちゃいけないんだよ」
ダヴィは身を起こして地面に座り込むと、車の玩具を持った手を体の後ろに隠した。服は雨に濡れ、その胸元には飛行機のピンバッチが光っていた。
「何もしてないよ、ロミ」ダヴィはそう言って、上目遣いにロミを見上げた。黒々とした豊かな睫毛、青み掛かった白目に嵌め込まれた瞳は黒曜石のようだった。「雨が降ってきたから、ここに隠れてたんだ」
「雨宿りしてたんだね」ロミは言い、雨なのか汗なのか、まだ乾き切っていない少年の柔らかな髪の毛に触れた。「でも、お母さんにも言われているでしょ? 危ないからこの建物には近付かないでって」
ダヴィは怒られたくないのか、言い訳を探すように視線を泳がせた。「中には入ってないよ。ここで遊んでたんだ」そう言いながら、背中に隠していた車の玩具をロミに見せてくる。まるで、それが免罪符になるかのように。「だから、お母さんには言わないで」
「中に入っていようがいまいが、関係ないんだよ」ロミは語気を強めた。「お母さんが言ったのは、この場所に近付くなって事だよ。建物が倒れてきて、その下敷きになったらどうするの? 蛇に噛みつかれたら、子供を狙う変質者に襲われたら、一体どうするの?」
ダヴィは顔を伏せた。産毛の生えた幼いうなじ、その首は簡単に折れてしまいそうな程に細かった。「だって、家にいてもつまらないから」
「お母さんはきっと怒るだろうな。ダヴィが言う事を聞かなかったから。外出禁止になるかもしれないし、夜ご飯を抜きにされるかもしれないね。だって、それぐらい悪い事をしたんだよ」
ダヴィは涙目になり、必死になって首を振った。「お母さんには言わないで。お願い、ロミ」
「でも、ダヴィは約束を破ったんだ。悪い子にはお仕置きが必要だ」
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