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落選記念日
吹きすさぶ風と打ちつける雨から守られた、暖房の効いた八畳の二階の自室で、グレーのフリースをきっちりと着て、読書に勤しんでいると、カイの鳴き声が微かに聞こえてきた。
耳を脅かす自然の猛威の中から、その声を見つけることができたのは、カイの介護を引き受けている身からすれば、当然のことである。
母を起こさないように、慎重に襖を開けて、ゆっくりと階段を下りていく。玄関を通り、仏間を抜けて、台所に入り電気をつけた。まるで、洞穴の中をくぐってきたような気分だった。
持ち運び用のケージの上部を外し、代わりに上から毛布をかけて、かまくらのようにした寝床から、カイが飛び出してきていた。寝る姿勢を変えたいのに思い通りにいかなかったらしい。
冷蔵庫の前の祖母の使っている椅子に毛布を置いて、カイを抱き起こして立たせてみたが、力の入らない足は、その場で踏ん張ることを赦してくれない。すぐに、尻もちをついてしまう。
もう一度、抱き起こす。今度は、自分の居心地のいい場所を探しはじめた。そして、ストンと腰を落とした。わんわんと泣いた。寝る姿勢を決める前に、また尻もちをついてしまったのだ。
自分の眠りやすい体勢を探すのに、カイは苦労をしていた。それでもなんとか、ゆっくりと眠れるポーズを見つけることができたらしい。椅子の背にかけた毛布を、上から優しくかぶせて、かまくらのような寝床を作り直した。
音を立てないように気を付けながら部屋へ戻ると、ベッドの上からパッとしない水色の毛布を手に取って、机の周りにだけ敷いたカーペットの上で、全身の冷えが抜けきるのを待った。
毛布にくるまった身体を目がけて、暖かい風が送られてくる。けたたましい音を立てる風雨は、一枚の毛布ではとうてい防ぎようのない音圧を与えてきている。
ここまできて、葉田洋は、ダンゴムシのような姿勢のまま、今日が何の日であるかということを、考えざるを得なかった。間違いなく、あの日である。洋はどうしても、この日の新聞を目に入れたくはなかった。
九月上旬、洋はある短篇小説の執筆に打ち込んでいた。それは、地元の新聞社が開催している文学賞に応募する一篇だった。
介護の疲れから心身に不調をきたし、思うように筆が執れない中で書き上げた一作は、応募作として、今年で一番ともいえる自信作と相成った。なんらかの賞を手に取ることができると、確信していたのである。
受賞者へは十月中に通知をするとのことで、いつ連絡が来るか楽しみにしていたくらいだったのだが、一向に嬉しい報せはこない。
十月も下旬になると、さすがに焦りを覚えはじめた。そして三十一日になり――スマホはうんともすんとも言わないまま、十一月になった。
すると、あの応募作は駄作であったという断定を下すようになった。いま思えば、物語の流れに飛躍があった。主人公の心情と言動の間に齟齬があった……などと。
こうして、丁寧に自作を冷評していくうちに、受賞を逃して当然だという諦めがついてきた。しかし、受賞者のインタヴューなどが記載された記事を見ることは、どうしてもできない。だからこの日の朝刊は、手にしたくないのである。
このときの洋は、嫉妬というより、自尊心を傷つけられたような感じがしていた。この心理は、容易に分析することができる。
自分が手にできなかった賞を、誰かが手にしているという単純な事実に加えて、高学歴であったり、若さであったり、自分に縁遠いものを持っている人たちが受賞しているという変数も作用しているのだ。
もう三十歳である。こんなみっともない自尊心は抑圧して、素直に「おめでとう」と言うことのできる大人になるべきだろう。
だけどそれは、こころに余裕のある者ができる振る舞いではあるまいか。この歳になっても一向に芽が出ず、プロの作家になりとある夢を叶えたいと切望している洋に、他者を祝福する気持ちを求めるのは、間違いである。
なにがなんでも、自分が受賞をしなければならなかった。悔やまれるのは、つまるところ、それだけなのだ。
郵便受けから新聞を抜き取ることなく、素知らぬ顔をして朝の分の家事をこなしていると、母が起きてきた。
リウマチの薬を飲むと、三十分は飲食できないため、その間に新聞を読むのが習慣であるのだが、母はその新聞がないことに、なにも言うことはなかった。
しかし、椅子に座りぼんやりとしている母が気の毒になり、タオルで手を拭いて玄関へと向かった。新聞を渡したら束の間だけ二階の自室にこもろうと考えていた。
スリッパが反対向きになっていた。洋はすぐにでも履くことができるように、腰を下ろして靴の向きを直すのがクセになっているので、それは、自分より先に外へ出たひとがいることを示唆していたはずである。
だが、大して気にも留めず、珍しく直し忘れたのだろうくらいに思って、スリッパを引っかける。
どこからか風に乗ってきた数えきれぬ落ち葉が、家の前の坂道を汚しているのを横目にみながら、郵便受けのある方へ周りこむと――そこには新聞がなかった。
まだ配達されていないのかしらと思いながら、玄関へと戻り靴を揃えるためにしゃがみこんだとき、靴箱と上がり框の間にある微妙な隙間に、新聞が挟まっているのを発見した。
それは、見つからないように隠したのであろうが、どこか雑なようにも見える。しかしこれは、リウマチで全身が痛んでいる母にできる、精一杯のことだったのだろう……。
九月上旬などという、締切り間近になり執筆を開始して、どうして受賞するなどと思ったのであろうか。そんな中途半端な気持ちで、良い結果を得ることなどできるわけがない。
受賞者に嫉妬するくらいなら、自分を叱責するべきである。そして、奮い立つべきなのだ。
洋は早速、来年に向けて応募作のアイデアを練った。いまから始めなければならない。自分も納得ができて、他人を納得させられるような小説を、作らなければならぬのだから。
風雨はいつしか止んでいるということを、罫線の狭いノートにペンを走らせている洋は知らない。
太陽はいまだに、地上に光を撒いてはいないが、厚い雲の向こうに、必ずあるに決まっている。
〈了〉
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