いつか

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いつか

 ここはどこだろう。  男の脳に最初に浮かんだ思考はそれだった。  辺りは潮の匂いがして、風の中に波の音が混ざる。ポツポツと灯る街灯が人気のないアスファルトを照らし彼はベンチに座っていた。バス停だった。  海辺の堤防沿いを通る道。右を見ても左を見ても道の先は暗闇で、自分がどちらから来てどちらへ向かおうとしていたのか思い出せない。上を見ると星空が広がっていた。天気はいいのだなと呑気なこと考えた。時間を知りたくて何気なく手首を目元に寄せるが、皺の寄った乾いた手の甲が見えるだけで腕時計をしていなかった。肌寒さを覚えて上着を着ていないことにも気付く。足元もサンダルで、なぜか強い疲労感が全身にあった。  ここはどこだろう。もう一度考えた。だが全く身に覚えがなく、男は額に手を当てた。困ったことに男は何も持っていなかった。ポケットも空で携帯電話もない。古びたベンチにぽつんと座っているだけで鞄も何もなかった。  彼は立ち上がりバス停の標識を見る。風化した丸い看板はペンキが剥がれていて文字が読めない。辛うじて赤と白の塗分けが暗がりでもわかる程度だった。時刻表は剥がされていた。ここは使われていないバス停なのだと気付くのに時間がかかった。周りには民家もなく道路を走る車もない。どうやらとんだ田舎の海の端にいるらしかった。  困ったことだと男は座りなおした。  最近物忘れが多いとは思っていた。はじめはテレビに出てくる芸能人の名前が思い出せないとか、三日前の食事が思い出せないとか、そういうよくある物忘れ。だが次第に自分でも驚くような失敗をすることが増えて、家の鍵をなくしたり買った覚えのないものが冷蔵庫に入っていたりしはじめた。  歳を取るとはこういうことかと、情けなさを感じていたところにこれだ。  彼はなぜここにいるのかわからなかった。きっとどこかに向かっていたのだろう。その途中でここに座ったのだ。何か目的があったはずなのにそれが思い出せない。思い出せないから帰ろうと思っても、帰る方向もわからなかった。右も左も似た風景で、さてどちらに向かうべきかと考えた。とにかく移動しなければ、何もわからないままではないだろうか。 「どうしましたか?」  ふいに声をかけられびくりと跳ねた。  俯きため息をついていたからだろうか、気付かぬ間にベンチの隣に女が座っていた。若い女だった。顎の辺りで切り揃えられた髪が印象的で、きりりとした目元だが妙に人懐っこい笑みを浮かべる女だった。こんな夜更けに若い女がひとりで、と心細く思ったが、なぜか夜に負けない明るさのようなものを纏っていて、きれいな女性だと感じた。 「どうやら道に迷ってしまったようで」  低く皺枯れた声で答えた。助けを求めているようで情けなかったが素直に答えるしかなかった。 「それはお困りですね。行先はどちらです?」 「さあ。それもさっぱり。……ただ、誰かと会う約束をしていたような気がします」  女と話しているとそんな言葉がすらりと出てきた。  そうだ。自分は誰かと会おうとしていた。会おうと思ってどこかへ向かっていたはずだ。 「それはどなたです?」 「さあ……誰だったかな……」  思い出せない。  とても大事なことだった気がするのに、すっぽりと抜け落ちたように記憶にないのだ。 「ではきっと、まだ約束の時ではなかったのではないですか?」  女が言った。 「どうでしょう。だが待たせているとしたら悪いことだ」 「大事な約束ならば、心配して迎えにきてくれるのではないでしょうか」 「そうでしょうか……。迷惑をかけてしまうなぁ」 「会いたい人に会いに行くのを迷惑だなんて、私ならきっと思わないわ」  ふふ、と笑った顔がひどく懐かしく感じて不思議に思った。自分はこの女性を知っているのではないだろうかと、そんな気がした。 「もしやあなたは私を迎えに来たのでは?」  自然とそう口にした。 「いいえ、とんでもない。むしろ追い返しに来たのです」  女が立ち上がる。そうして右の方を指さして言った。 「お帰りくださいな。約束の時間にはまだ早すぎます。あなたが行くのは、あっち」  指をさしている方を見る。  チカチカ、と明かりが見えた。車のライトのようだ。それも大きな車。バスだろうか。 「あなたは乗っては駄目よ」  近付いてきたバスが目の前で止まる。何人か乗客もいた。女はそのバスに乗り込んでいく。 「もう少し、頑張ってね」  女が手を振った。一緒に行きたい、そう思った。だが追いかける前にバスの扉がプシュー、と閉まる。 「待ってくれ」  思わずそう叫んだら、女は少し寂し気に笑って、「待ってるわ」と唇を動かした。 ーーー 「お父さん、朝よ、起きて」  そんな呼びかけにゆるゆると意識が浮上して重い瞼を開いた。  天井の板が見える。  誰かがカーテンを開けたのか部屋に光が差し込み、舞っている埃がちらちらと光った。 「朝ごはん食べられそう? ヘルパーさんがお粥作り置きしてくれてるみたいだけど」  そう言って覗き込んできた中年の女に誰だ? と思った。  知らない女が家にいる。ひどく不思議に思ってゆっくりと身体を起こす。鉛みたいに重くて固くて、気だるい。 「あんた誰だ」  乾いた声で尋ねる。 「はいはい。あなたの娘ですよ。一昨日も来たけど……仕方ないわね」  女は独り言のように呟いた。娘? 娘……。 「今日は病院に血圧のお薬貰いに行かないといけない日だから迎えに来たのよ。ご飯食べる? 温めようか?」 「いらん」 「少しは食べないと、弱る一方よ」  説教じみているが諦めの滲んだひとこと。女は引き出しから着替えを取り出していた。  血圧、病院、薬……。それには確かに身に覚えがある。ベッド脇のテーブルの上には処方された薬の袋が散乱している。 「ねぇお父さん。そろそろ施設考えよう? もう九十になるんだし。私も小まめに来られるわけじゃないから心配よ。ヘルパーさんとも相談してさぁ」  娘を名乗る女の話が耳の中を滑っていく。九十。もうそんな歳なのか。あっという間な気もするし、気が遠くなるほど長かった気もする。  古い木造の家の寝室を見回しながら、ここは確かに自分の家だと確認する。そうして箪笥の上にある小さな仏壇を見て、あ、と思った。  写真が飾ってある。  女の写真だ。  顎のラインで切り揃えられた髪型が印象的できりりとした目元の美しい女。 「おい。あの人は誰だ」  写真を指さして言う。 「……。お母さんだよ。お気に入りの写真でしょ。自分で選んだくせに」 「夢で会った」 「へぇ。何か言ってた?」 「もう少し頑張れと言われた」 「ええ? 何それ。追い返されたの?」  あはは、と女がからりと笑う。笑った雰囲気が夢の女とよく似ていた。 「約束をしたんだ。待ってるそうだ」 「……そう。きっと素敵なところよ。いつか行けるといいわね」  すん、と女が鼻をすする。  夢の余韻だろうか。とても温かな気分だった。  そうして、もう一度会いたい。早く会いたいと、恋しさを感じた。
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