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九.
私はぞっとしました。雪のちらつく冬の夕方の寒さとはまた別種の寒気が全身を駆け巡りました。私は慌てて蒼翅君の家の玄関に飛びつきました。震える手で磨硝子の引き戸に手をかけると、私の目の前でたしかに施錠されたはずの扉は音もなく開きました。私は中に飛び込んで二階を伺いました——蒼翅君が降りてくる気配はなく、ただ不気味なまでの静寂が薄暗い一階を支配しています。私は急いで土間を突っ切って庭に出ると、雪を被った丸テーブルと籐椅子、手入れのされていない椿の垣根と、その下の地面の盛り上がりを順番に見ました。
この春に出したきり片付けられていないテーブルと籐椅子に、手入れのされていない椿。数か月前に突然姿を消した蒼翅碧花と北村瑤。ちょうど同じ頃に起きた忌まわしい事件と、それに続く蒼翅碧花の心身の不調。長いこと使われていない台所。疲れ果て、やせこけた蒼翅碧花のために甲斐甲斐しく働き続ける北村瑤——嫌な予感に私の心臓は激しく脈打ち、私は緊張のあまり吐き気さえ覚えていました。私は急いで土間に戻ると、おぼつかない手で勝手口の横にまとめられた(そしてやはり長いこと手入れされていない)園芸道具の中からスコップを探し出すと、もう一度庭に足を踏み入れました。
私は一片の迷いもなく、椿の下の盛り上がった地面に向かいました。そのあたりは日当たりが特に悪く、前日の雪がまだ少し残っています。私は恐怖と寒さに震えながらも、何かに操られるようにそこの土を掘り返しました。凍り付いた表層を取り払い、その下の柔らかな土をいくらか掘っていくと、何か白くて固いものに行き当たりました。スコップと手を使ってそのあたりの土を全て取り除くと、果たしてそこにあったのは一つのしゃれこうべでした。
私は悲鳴を上げそうになるのをぐっとこらえました。代わりに歯を食いしばり、年甲斐もなく涙がこぼれそうになるのを我慢しながら、しゃれこうべの周囲を掘り進めました。徐々に姿を現したその白骨は、土の中に丁寧に収められていました。私は白いシャツに包まれた上半身を露わにしたところで、とうとう耐えきれなくなってスコップを放り出しました——その白骨が着ている白いシャツは、まさしく喫茶ルミヱールの制服だったのです。
私は後ずさり、頬を伝う涙をぬぐいました。北村瑤青年の失踪の全ての答えが、この庭にありました。北村君をここに埋めたのは蒼翅君で間違いないでしょう。そしておそらく、恋人を自らの手で殺めてしまったという事実によって彼は正気を失い、執筆ができなくなったのです。蒼翅君の狂気は化けて出た北村君を本人だと認め、家のことは彼に任せて自身は執筆し、時折二人で体を重ねるいつもの生活に無理やり肉体を押し込みました。ですが意識の中では抑えられていても、自ら引き起こした惨劇の記憶は体の方に染みついてしまっていたのでしょう。そして北村君は、蒼翅君の意識と肉体を現実から引き離してこの家の中に閉じ込めてしまったのです。自分一人では立たなくなった蒼翅君の性器が北村君には反応したというのも、もしかすると蒼翅君を逃がさないために用意された一種のまやかしだったのかもしれません。
私は丸テーブルに寄りかかり、痺れたように動かない頭でこれからのことを思案していました。今すぐここを出て、庭に死体が埋まっていると警察に届け出ることもできます。そうするべきだということは重々分かっていました。それでもなお、この期に及んで、私は蒼翅君の心配をしてしまったのです。突然警察が押しかけて彼に北村瑤殺しの罪を突き付けたら、果たして彼は耐えきれるのでしょうか? 愛しい恋人を酔った勢いで殺したという事実と後悔が彼の心身をおかしくしてしまったというのに、これ以上の重圧を受けたら彼の心は完全に砕けて、二度ともとには戻らないのではないでしょうか?
ですが、このまま彼をこの場所に居させることはできませんでした。たとえ彼の病みきった心をさらに傷つけしまうとしても、私は彼を現実に連れ戻さねばなりません。彼が狂ったまま一生を終えるとしても、ある種呪われたこの家よりも、留置場か病院で最期を迎える方がよほど健全だろうと私は考えました。そして今すぐ警察に届け出て、この家の庭に白骨が埋まっていることを伝えようと心を決めました。
私は、土間に戻ろうと踵を返しました——そこで、縁側に立ち尽くす蒼翅君と鉢合わせしたのです。私は驚いて後ずさりました。彼がそこに立っていようとは思ってもいなかったのです。
ところが蒼翅君はじっと立ったまま、動く気配を見せません。私も私で、足が凍り付いたように動けませんでした。我々は少しの間、見つめ合ったままどちらも動かずにいました。蒼翅君は髪を振り乱し、目元が隠れて表情が見えません。その頭が突然きっと上げられ、私は前髪の隙間から爛々と光る狂気の視線に完全に足がすくんでしまいました。蒼翅君は獣のように吼えると、恐怖に体を縮こませた私に飛びかかりました。
蒼翅君は長身でしたが、元々がひょろっとしていて力も強くはありません。ましてやろくに食事もしておらず、私に掴みかかった腕など枝のようにやせ細っていたというのに、彼は凄まじい力で私を地面に引き倒しました。彼は吼え、唾をまき散らしながら、私の顔や腕を滅茶苦茶に引っ掻きました。私は叫びながら必死でもがき、彼の顔や胸を出鱈目に殴り返しました。そうしてもみ合ううちに、のしかかる体重が一瞬ふっと軽くなりました。私はその隙を突いて、蒼翅君の体を押し退けました。蒼翅君の体が地面に転がって体が自由になると同時に、私は起き上がってわき目もふらず逃げ出しました。
私の背後では、蒼翅君が何やら喚いていました。ですが彼の発する言葉はどれも不明瞭で、私はろくに聞き取ることができませんでした。意味をなさない叫びはやがて慟哭に代わり、私が玄関の戸を閉めて雪のちらつく夕闇の中に駆けだしたときには、彼はよう、ようと縋るような声で泣いているようでした。
警察に届け出ようという正義の心は、この襲撃によって跡形もなく消え失せました。私は足を止めずに駅まで走り続け、電車に飛び乗ってからようやく一息つきました。ですが車内の人々は、皆ちらちらと怪しげに私を見ています。私は車窓に映る自分の顔を見て、そのわけを知ると同時に愕然としました。私の顔には蒼翅君が引っ掻いたあとが無数に走り、うっすら血を滲ませていたのです。さらに私は、つり革を持った左手に痛みが走ったので、ようやく火傷のことを思い出しました。ですが、これだけの痛みを背負ってもなお、私はあの家で起きたのが長い悪夢に過ぎなかったのではないかと願う気持ちを抑えられなかったのです。
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