二人だけで

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二人だけで

 小学校4年生の秋の遠足は、バスで少し遠くに行く遠足だった。  当然だが、それにはバスに乗らなければいけない。 ********  保奈美はものすごく憂鬱だった。  昔から乗り物には弱く、乗り物酔いの薬を飲んでも、眠くなるだけで気持ち悪くなるのは変わらなかった。  乗る前に空腹だといけないとか、満腹だといけないとか、みかんを食べるといけないとか。  色々なことを試したけど、どれも効き目はなく、防水の紙袋を抱えて、バスに乗って我慢するしかないのは目に見えていた。  吐くのは辛いので、保奈美は空腹でバスに乗ることにしていた。吐くものがあると臭いもするし、バスの中一杯の冷たい目が保奈美に注がれるのには耐えられなかった。  たとえ、酔っても、吐くものがなければ、涎くらいしかでないので念のための紙袋を抱え、一番前の席で先生の隣に座ることになるだろう。  本当は遠足の日に具合が悪くなって休めると嬉しかったけど、でも、今回の遠足は、保奈美が前から行きたかった綺麗なコキアがある公園に行くのだ。  保奈美の家はお店をやっていたのでなかなか連れて行ってもらえなかった。  それにお店をやっているので、仮病を使ってまで休むのは親に迷惑をかけるのも分かっている。 *************  俊はものすごく憂鬱だった。  バスに乗る遠足だなんて、クラスに友だちのいない俊はバスの席を決める時に絶対にみんなが揉めて、一人で座る事になるに決まっている。  俊はまだ引っ越してきたばかりだったし、方言が強くてクラスの皆からは馬鹿にされていた。  それに、家はあまりお金がないから成長期の俊は2枚の服を交互に着て学校に行っていた。勿論お母さんは洗ってくれるし、汚くはないけど、半年ほどで大きくなるに決まっているから、丈が少し短くなって、きつくなるまでは洗いざらしの段々薄くなっていく服を着るしかない。  次に買ってもらうのはちょっと大きめの服なので、新しい服でもぴったりの服を着たことがない。丁度良くなるころには毎日の洗濯で毛玉が出来たり薄くなったりしてしまう。  勿論先生の前でそんなこと言う子は誰もいない。  ただ、クラスの空気は俊を拒否していた。   *******************  クラス担任の関先生は困っていた。  必ずバスに酔う保奈美さんと、今クラスで浮いてしまっている俊さんを連れて、バス遠足に付き添わなければいけない。  元々、誰だって、吐瀉物の臭いは苦手だが、関先生は特に敏感で、つられてはきそうになってしまう。背中をさすってあげたいけど、男性教諭なので、今時は女子生徒の背中を撫でたりしたらセクハラと言われかねないし。  いつも隣に乗っていたけど、今回は一番前の後ろの席で見守れば良いかなぁ。と考えていた。  最近は保奈美さんも念のために紙袋を持っているだけで、吐いたとしても唾液程度だし、俊さんも皆といるよりは一番前の席の方が気を使わないのではないだろうか。  関先生はそんなふうに思って、ちょっとずるく逃げることに決めた。 ********************  遠足の前の日にバスの席が発表になっても誰も文句は言わなかった。  当日、空は良く晴れて、絶好の遠足日和だった。  コキアも紅葉が始まっているという情報があったし、楽しい遠足になるだろう。    保奈美はお母さんが作ってくれたお弁当を持って、朝ごはんはいらない。と言ったのだが、ちゃんと食べなさい。と叱られてしまい、少しだけパンとスープを飲んだ。  酔い止めも勿論忘れずにのんで、バスに乗った。  俊はお母さんが朝早くに仕事に行ってしまっていたけれど、お弁当はちゃんと作ってくれていたので、自分で朝ごはんを用意して食べて、お弁当を持って遠足のバスに乗るために学校へ向かった。  最後尾の人達から遠足のバスに乗って、保奈美と俊は最後に乗り込み、そのあとから先生が乗って、人数確認をして、保奈美と俊の席の後ろに座った。  俊は、保奈美が乗り物に弱いことは知らなかったが、紙袋を抱えていたので、『あぁ、酔いやすいのか。それで一番前で俺の隣か。なんか悪かったな。』  と、まだ話をした事の無い、髪を二つに分けて結んでいる保奈美をみて思った。  保奈美は俊と話した事はなかったけど、確か、旬の方言はこれから行く場所の方言だというのは何となく、お店に来るお客さんの話を聞いて知っていた。 『吐かないようにしなきゃ。話した事もないのにいきなり嫌われちゃうよ。』  保奈美は心配したが、そう思う気持ちで胃が動かなくなってしまい、朝食べた物の消化を益々遅らせた。  バスが出発して、15分ほど経った頃、保奈美は激しい吐き気に襲われ、自分と戦っていた。 『吐いたら臭い。皆に見られる。我慢。我慢。』  いくらそう思っても胃は我慢してくれなかった。  こみ上げる物を感じて、保奈美は急いで紙袋で受け止めた。  やはり朝食に食べた物を戻してしまったのだ。  バス中に臭気が広がる前に先生が慌てて、 「バスの窓を開けて~。」  と、皆に言った。 「わ!また保奈美さんが吐いた~。」 「くっさ。」  バスの中は思った通りひと騒ぎになった。  吐いた紙袋の口を臭いがそれ以上洩れないように片手でしっかり押さえて、リュックのポケットから片手でティッシュを出そうとしていたら、隣に座っている俊さんが、ティッシュを渡してくれた。 「しゃ~んめ(しょうがないよ)。あます(吐くのは)の苦しいわな~。」  小さい声だったし、何を言ってくれているのかはわからなかったけど、先生より先に面倒を見てくれているのは確かだった。 「あ・・ありがと。」  ティッシュで口元を拭いて、紙袋に入れた。  そのあとも気分はあまりよくならず、ひたすら紙袋の臭いが洩れないように握りしめていたら、ようやく先生が来て、紙袋を回収してくれた。 「もう吐くものない?片付けていいかな?」  先生の方が吐きそうな顔をして、回収して行かれると、保奈美は益々情けない気持になった。  ようやく現地について、お弁当を食べ終わるまで自由時間になった。 「なるべく班ごとに食べてくださいね~。」  先生はそう言っていったん解散にしたが、みんな班の事など無視して仲の良い友達同士でお弁当を持って公園内に霧散していった。  ようやくバスから降りた保奈美はまだ青い顔をして、もう一人ポツンと取り残された俊と二人で立っていた。 「俊さん、さっきはありがとう。ティッシュ片手じゃうまく出せなかったの。」 「妹が、よくあますから・・平気だ。」  なるべく標準歩で話そうとしているのだろう。ゆっくりと話してくれた。 「あます」は多分、吐くってこと?と予想はついた。 「ねぇ、俊さんって元々こっちの出身だよね。もしかして、この公園来たことある?」 「あぁ 何度もある」 「お弁当を一緒に食べる?お腹落ち着いて、もう食べられそうだから。どこかいい場所知ってる?でも帰りもあるから半分くらいしか食べないけどね。」  俊は黙って頷いた。  俊は急に嬉しくなって家族で何度も来たことのある公園の一番景色の良い場所へと向かって保奈美の前を歩き始めた。  中学生以下は入場料が無料なので、お金のあまりない俊の家ではもっぱら出かけるのは家の近くのこの公園だった。  四季折々に美しいこの公園だが、今はコキアの紅葉の時期。  コキアの紅葉が一番きれいな所で人があまりいない場所。  俊は良く知っていて、皆があまり行かない場所へと向かった。  コキアが美しく紅葉しているのを全体に見られ、それでいて、人があまりいない小さなあずまやがある場所まで、結構歩いた。   「ここ」 「わぁ、本当にすごいね。それにクラスの誰もいない。沢山歩いている間にコキアもいろんな角度でたくさん見られたし。  私バス遠足の時は皆に避けられちゃうんだよね。  お弁当も、食べてると、お前帰りにまた吐くだろう!とか言われちゃうし。」 「気にすんな。きにすっから腹が動かなくなるんだ。」  俊は俯いたままぼそっと言った。  保奈美は俊の俯いた顔を見ながら『そうか~。気にしすぎて胃が動かないから時間が経ってもダメだったのか。』と、思った。 「うん。せっかくお母さんが作ってくれたんだから。きっと消化の良いお弁当だろうし。食べる。おなか空いた。」  俊も黙って、隣でお弁当を開いた。  二人は紅葉したコキアを見ながら時折吹いてくる心地よい風に吹かれて、お弁当を食べた。 「ね、ここって少し遠いけど、中学生になったら他の時期にも来てみたいな。」 「他の時には別のいい場所がある。」 「中学になれば友達と出かけても叱られないと思うから、またいい場所教えて?電車でくればバスほど酔わないから。  駅から乗るバス位なら酔わないし。」  結構遠くまで来ていたので、二人はお弁当を食べ終わると、話しながら集合時間に間に合うように結構歩いてバスまで戻ってきた。  よくしゃべったせいか、緊張が解けたせいか、その頃にはいつもの胃が重い感じが保奈美にはないのが感じられた。 『あ、これなら酔わないかも。』  念のため、酔い止めを出して飲もうとすると俊が 「妹は、飲まない方が酔わないで言ってた。」  と、保奈美に言った。  確かに飲んでも調子は悪くなるのだから、今の調子のよさだったら飲まない方が良いのかもしれない。 「中学校になったら。ね、約束だよ。」  俊も頷き、帰りのバスは保奈美も酔う事無く無事に帰ってこられた。  小学校はそのまま無事に過ぎていって、二人は同じ中学校へ進んだ。  保奈美もバスに乗る時以外は普通に友達がいたし、俊もだんだん男子の中になじんでいったので、それからはあまり親しく話すこともなかった。  そして、中学校に入ってから、最初の土曜日の帰り道。  保奈美が家に向かっていると、俊が後ろから追いかけてきた。 「なぁ、小学校の時の約束覚えてる?」  すっかり方言の抜けた俊が聞いてきた。 「うん。もちろん。」 「明日、ネモフィラ見に行くか?丁度見ごろみたいだ。」 「え?いいの?お母さんに聞いてみる。」  保奈美は父母のやっている定食屋へ寄って、俊と一緒に明日出かけていいか聞いた。 「えぇ、勿論。美里さんから聞いていたわ。」  俊のお母さんは保奈美の父母がやっている定食屋でパートをしている。 「お弁当のおかずの仕込みも一緒にしちゃおっかな。ねぇ、二人とも同じお弁当で良いよね。里美さん、私、おかずを二人分作るからおにぎりお願いしていい?  里美さんのおにぎり、握り方が丁度いいのよねぇ。」  里美というのは旬の母親だ。   「もちろんです。おかず代払いますよ。」 「いやねぇ。いらないわよぉ。こちらが案内をお願いしているんだし、おにぎりもお願いしてるんだからこっちがお礼しなきゃいけない位なのに。」 「ありがとうございます。」  俊と里美は同時にお礼を言って、顔を見合わせた。 「妹さんは?一緒に連れて行かないの?」  保奈美の母が聞く。 「あぁ、もう行き飽きているからいいんですって。」  里美が答える。 「それに、俊と保奈美ちゃんの約束の場所ですものね。」  里美は意味ありげに俊を見てニヤッと笑った。  俊と保奈美は顔を赤らめながら 「じゃ、明日のお弁当はお願いね~。」  と、言いながら店を出た。 「ねぇ、あれから全然話してなかったのに、約束覚えていてくれたんだ。」 「あぁ、俺が一番きつかった時期に親切にしてくれたのは保奈美だけだもん。それに俺は何度言ってもあの場所は好きだしな。」 「いやいや、それを言うんだったら私の方だよ。あの後はバスにも酔わなくなったし。本当に助かりました。」  改めてかしこまってお礼を言う保奈美を見て、笑いながら、二人はそれぞれの家へと別れていった。  明日は、美味しいお弁当を持って、綺麗な水色のネモフィラを、一番良い場所で見ながら仲良くお弁当を食べるのだろう。  あの約束をした場所で、小学校の遠足の時の様に。 【了】  
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