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民家にかくれた海のむこう、橋梁の上を走行する鉄道のジョイント音。くちなしいろの夕日を追いかけていく、名まえも知らない鳥の啼き声、草木にかくれたマダラスズの交互唱。
星空が夢のためにあるように、それらがきみとぼくの世界を、ふたりだけの時間の原子を震わせるたび、燃えるようにかがやくから。瞬きのせつな、ぜんぶぼくらのものになる。しあわせな鼓動が胸を熱くする。
ぽつり、と。春希さんは独りごとみたいに囁く。雪そっくりの消え入りそうな声。
いつか、溶けちゃうんでしょ?
かまくらのこと?……うん、いつかは溶けちゃうかな。
そりゃそうよね。あたし、何いってるんだろ。もうすぐ三年の先輩たちが卒業しちゃうから、少しそわそわしてるのかも。
両肩にのしかかる沈黙。こんどはぼくの番だった。きみの袖を引き、歩みをとめる。肩ごしにふり返るきみ。コインローファーの足音が消えるだけで、じぶんの鼓動が通りに響きそうなほど騒がしい。
ちょっと待って、春希さん。
どうしたの。
踏んじゃいそうだったから。
ぼくの視線をたどり、きみは小さく息をのんだ。道端に咲く、白い花。多年草のカモミール。
ありがとう。気づかなかった。この甘酸っぱい香り、もしかしてこのお花から?
うん、カモミールだろうね。ギリシャ語の「大地のリンゴ」が語源になっていて、ハーブティに使われる品種もある。
ほんとに物知り屋さん。百科事典と話してるみたい。
物知り屋さん。きみからしか聞いたことがない組み合わせの接尾語。きみはかがんで花とぼくを交互にみつめる。
退屈な話だったね。
ううん、聞かせてほしい。蒼真って、こころに余裕があるんだなって思う。あたしはいつもせかせかしてるからさ……蒼真と仲良くなるまで気づかないことばかりだった。いつもの通学路に花が咲いてることも、雲のかたちが自由に変わることも。
雲?
うん。付き合ったばかりのころ言ってたじゃん。イルカのかたちの雲をみつけたら、ラッキーな日だって。
付き合ったふりでしょ。言いかけて、こころに留める。ぼくもかがんでみる。カモミールの花びらはきらきら光り、夕焼けに染まっていく町並みのなか、さいごまで残る白さ、東の空にうかんだ月よりきらびやかな白色を誇っていた。
よく憶えてるね。
そりゃそうよ。大事な思い出なんだから。
どことなく不貞腐れたような呟き。ぼくが狼狽えるより早く、こちらに身を寄せるきみ。ひとつに重なる影、宵の口になじんだ輪郭。首筋をくすぐるきみの髪が、花の匂いを上書きする。
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