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私の小学校には、物置と化している空き教室があった。そこには演劇用の衣装や仮面、本や使っていない机やら地球儀やらが押し込まれていた。
本来、生徒は立ち入り禁止だったけれど、私とKは昼休みにそこに入り込んでおしゃべりするのが日課だった。二人とも、教室は生徒同士の力関係や付き合いが煩わしかったのだ。
話も一段落して、なんとなく教室を見回していたKは、「あれ?」と言いながら立ち上がった。そして棚と壁の隙間から、何かを引っ張り出してくる。
それは、枠組みとドアノブのついた戸板だけのドアだった。演劇で、家と外、部屋と部屋の境界を表すものだ。だいぶ古いもので、白いペンキが所々はげていた。
「どこでもドアだ! どこでもドアがある!」
Kが、キャッキャとはしゃいだ声を上げた。
壁にくっついているはずのドアがそれだけで立っているのは、何だか新鮮だった。
「くぐってみようよ!」
言われるまでもなかった。私も立ち上がって、Kと一緒に何度もドアを潜って行ったりきたりした。
なんというか、普通ならドアをくぐると別の部屋にたどり着くのに、ドアをくぐっても同じ教室の中、というのがおもしろかったんだと思う。
何度ドアをくぐったか、急に目の前がまっくらになった。
驚いて足をとめたら、後ろからKがぶつかって、ドアの向こうに押し出された。。
いつの間にか、私たちは夜の住宅街に立っていた。
街灯が並んで、白っぽい光が等間隔に道路を照らしていた。
庭先に植えられた低い木や、生垣。ゴミ捨て場に立てられた、捨て方を書かれた看板。駐車場に留められた何台かの自動車。その近くに、自販機が小さな音を立ている。
「え? え?」
私はただオロオロすることしかできなかった。
「え……どこ、ここ」
隣で、Kの困惑した声が聞こえる。
じゃあ、今通ってきたドアは?
振り返ると、枠組みだけの白く塗られた古い木製のドアは、アパートの壁についた茶色の扉になっていた。つまり、私たちは、古いアパートの一室から出てきたことになっていた。
私が困惑している間に、Kはパアッと顔を輝かせた。
「すごい! 本当にどこでもドアだ! どこだろう、ここ! 探検してみよう!」
「ちょ、ちょっと!」
ぐいっとKに手首を引っ張られ、私は駆け出すはめになった。
ざわざわと風に枝がなびく。自分達の足音が響いた。窓からもれた明りがアスファルトに模様を描いている。
そこで、私は何か違和感を覚えた。生活音がしない。
普通なら、人が生きているのなら食器を洗う音や、テレビの音、水を流す音、そんなのが聞こえて来るはずだ。
聞こえるのは風や、鳥がたまにたてる鳴き声とか自然の音ばかりだ。
でも、窓には人影が映って動いている。
「ねえ、怖いよ、もう帰ろうよ。昼休み、終わっちゃうよ」
どれだけ進んだのか、とうとう私が足を止めると、Kもしぶしぶといったように走るのをやめた。
「仕方ないなあ……怒られるのも嫌だし」
塀の外に鉢植えが置かれた家の前を横切り、とぼとぼと元来た道を戻り始めた。
けれど、たどり着かないのだ。私達が出てきたはずの、アパートに。
曲がったりせず、まっすぐに走ってきたから迷うことなんてないはずなのに。
初めてきた町並みなので、全部を覚えているはずはないけれど、さっき通ったときと建っている家が変わっている気がする。
「ね、ねえ。こっちでいいんだよね」
今まで能天気にはしゃいでいたKも、段々と不安そうな顔になってきた。
このまま、帰れなかったらどうしよう。もう二度と、お母さんやお父さんに会えなくなったら? 夜になっても帰らなかったら、お母さんとお父さんはどう思うだろう?
「あら、どうしたの?」
背後から、声がして、弾かれたように振り返る。
いつの間にか、小太りのおばさんが立っていた。もう暗いのに、なぜかサンバイザーをつけていた。首に白いタオルをかけている。蛍光ピンクの半袖に、紫外線よけの黒いアームカバー。ランニング用のタイツをはいていた。
大きな目をした優しそうな顔つき。小さい子をさらって殺してしまうような悪い人ではないように見えて、少し安心した。
「ええと、迷子、迷子になっちゃって」
「ドアをあけたら、ここにいて、でも、帰れなくて」
私達は、今まであったことをこのおばさんに説明した。二人とも興奮していたし、小学生のつたない説明だったけれど、そのおばさんは何とか理解してくれたようだった。
今思えば、不自然なくらいすんなりと。
「ああ、そういうことね。ついておいで」
安堵で座り込みそうになる足に力を入れ、私はおばさんの背を追った。もちろんKも一緒に。
丸っこいピンクの背中ががふらふらと揺れる。
ぐちゅ。ぐちゅ。おばさんが歩くたびに、奇妙な音がするのに気がついた。おばさんの足が地面につくたびに、ランニングシューズから水があふれている。まるで水溜まりに足を突っ込んだように。
振り返ると、おばさんの塗れた足跡が乾いた道に点々と残っていた。なんだか、生臭い匂いもする。
Kも、その異常さに気付いたのか、チラチラとおばさんの足元を見ていた。
(きっと、どこかで水にはまっただけだよ……)
雨が降った様子はないのに、どこにハマる水があるのかは分からないけど私は自分にそう言いきかせた。
「……ケフィ……バ……」
突然、おばさんがブツブツと呟き始めた。
それは独り言のようにも、ハミングのようにも、呪文のようにも聞こえた。
「あ、あの、おばさん、ここって、どこなんですか?」
Kがかけた声は震えていた。
「……ヂツ……ウィレジュ……」
おばさんは何か呟き続けている。Kの言葉が聞こえなかったはずはないのに。
なんだかそれが不気味で、逃げ出そうかどうか迷い始めたころ。
「ほら、ここでしょ」
おばさんが立ち止まったのは、確かに私達の出てきたアパートの前だった。
「ここの、一番端のドアに入れば戻れるから」
「あ、ありがとうございます!」
おばさんが見守るなか、私達は例のドアの前に立った。
扉を開けたら知らない部屋で、知らない人がいたらどうしよう。そんなことがちらりと頭に浮かんだけれど、このまま帰らないわけにはいかない。
ドアノブに手をかけ、振り返った瞬間、おばさんが首にかけたタオルを取った。一瞬その首に切れ目がたくさんついていたように見えたのは、気のせいだろうか。まるで魚のエラのように。
でも、それをはっきりと確認する事はできなかった。
ドアを開けて、中に飛び込む。
急に明るい場所に出たので、目がチカチカした。
使っていない机や、がらくたのつまった棚が周りを囲んでいるのが分かる。
なんだかあの夜の街よりも、空気が暖かい気がした。
「戻ってこられた!」
私は思わず呟いた。
Kと目を見合わせる。
(あれは、夢じゃなかったよね?)
同じ疑問が二人に浮かんでいるのが分かった。そして、無言で現実だということを確認し合う。
知った場所に戻ってきて安心したからか、今までの恐怖が嘘みたいに消えていった。なんだか、だんだんと冒険から帰ってきたような高揚感が湧いてきた。
私達は、すごい体験をしたのだ。まるでマンガか小説の主人公のように。
「ね、ねえ」
少し上ずった声で、Kが言った。
「さっきの事、内緒にしようね」
「う、うん」
それは、私も考えていたことだった。
こんなこと、誰に言っても信じてくれないだろう。バカにされるのがオチだ。
「これは、私達だけの秘密!」
この体験を知っているのは、私とKだけ。
なんだか、共犯者になったような気がした。特別な友情の印を得たような感じだった。
数日後、私がまた昼休みにその物置教室に入った時だった。
違うクラスの知らない女の子がKと一緒に何か話していた。
「あれ?」
私に気づいたKは、いつも通りにっこりと微笑んだ。そして、知らない子はMというんだと教えてくれた。
Mは『こんにちは』とあいさつしてくれた。でも、どこかこちらをバカにしているような雰囲気があった。
Kは、にこにこと笑ってこんな言い放った。
「あの扉の事をこの子に話したら、信じてくれないの」
その言葉で、頭を殴られた感じだった。
(え? 話した? 内緒だって言ったのはKだったのに)
裏切られた気がした。
あの思い出は、二人の友情の証だと思っていたのに。秘密の冒険だと思っていたのに。
それを、人に教えたのか。しかも、こんな嫌な奴に。
「別の町に行けるなんて、あるわけないじゃん」
Mはどこか軽蔑したように言った。
さっき、あいさつのときにバカにしたと感じたのは、私達がくだらない嘘をついていると思っているのだろう。
「だからさ、嘘じゃないって教えてあげようと思って」
Kが、あっけらかんと言った。私がショックを受けているのに気づきもしないで。
「どうする? 一緒に行く?」
私は、首を振った。
怖がっているんだと思ったのだろう、Kがくすくすと笑った。
「大丈夫だよ。どこにも行かないで、すぐに戻ってくれば平気だって」
内心の怒りが表情に出ないように気をつけながら、私は首を振った。
「ううん、行かない」
「そう? じゃあ、行って来るね~」
それだけ言うと、前と同じようにぐるぐるとドアをでたり入ったりを繰り返し始めた。
ふいに、二人の姿が消えたと思ったら、ドアがバタンと閉まった。
校庭で騒ぐ声がかすかに聞こえた。
広くない教室に、ペンキのはげた古い扉だけがポツンと残された。
私は、その古いドアに手を欠ける。
そして、押し倒した。床に倒れたドアは、鈍い音をたてた。四角い枠の一角が外れ、チョウツガイの下の方が弾け飛ぶ。
チョウツガイが床をすべり、つま先に当たった。
その瞬間、急に自分のした事が怖くなり、その教室を飛び出て、自分の教室へ逃げ帰った。
それから、KとMは行方不明になった。
あとでKとMの親がビラを配ったり、ポスターを貼ったりしたが、結局今も見つかっていない。
私はKと仲良くしていたから、あとで先生に呼ばれ何か知らないかと聞かれたけれど、「知らない」「分からない」を繰り返した。
事が事だけに、私が疑われることはないだろうけれど、どこかに真実を残しておきたくて、これを書くことにした。
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