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喪失の紅
秋の堤に一斉に咲いた紅。
その目も覚めるような風景の中に、草臥れた姿の壮年の僧侶が、これまた古びた祠に祀られた地蔵様に念仏を捧げている。
その熱心な信心を称賛するように、高く遠い空から降りてくる乾いた秋風が読経を上げる僧を撫でて行った。
その淀みなく柔らかな読経は彼の岸にまで届き、亡者を救うもののように思われた。
流れるように続く読経を遮る怒声が無粋にもそれを止めた。
「安浄殿!!」
歳の頃は二十歳前後であろう。
読経を上げていた僧はしばし沈黙したが、自分に向けられた怒声に振り返る事は無かった。
彼はその声をよく知っていたからだ…
そして、その若者の怒りの理由にも彼には覚えがあった。
「安浄殿!これが何なのか、ご説明願う!」
そう言って怒りを顕にする青年が掲げるように見せたのは与力や同心が使う捕具《十手》だ。
呼びかけにゆっくりと振り返った僧の視線が青年に向かう。その視線が青年の手にした悪しき過去に留まる。
「…見つかって…しまいましたなぁ…」
その呟きは罪を白日のもとに晒された後ろ暗さより、隠れ鬼で最後に見つかった子供のような安堵したような響きがあった。
「説明は、要りますかな、頼重殿?」
「安浄殿…」
「それは、貴方がお探しだったものです…どうしても…どうしても捨てられなんだ…
馬鹿でしょう?私は、自分の罪の証を…貴方の父君を殺した証を持ち続けていたのですから…」
安浄はそう言って静かな視線を青年に向けていた。
安浄は頼重の返事を待っていた。
沈黙を嫌がるように、二人の間を秋の乾いた風が通り抜けた。
返事を促すように、辺り一面に咲いた紅い花が頭を振ってざわざわと揺れていた。
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