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『黙して語らず』 66
……そこまでわかっていながらと言うんですか。……君にはまだわからないでしょうね。……えっ、香奈子という女性を愛したからと。……それはほんのひとかけら。小さな理由にしかならない。……私の沈黙は罪の償いではけっしてない! 私はこの街で埋もれていくのではなく、聴き手の世界で語り継がれ、私は伝説となるんです。都市伝説ですよ、……わかりますか?……「黙して語らず」、至高の極意です。沈黙が人を幸福へと導く。私は聴き手として究極の域に達したんです。誰もがそう簡単には成し得ない域にです。語り手の秘密を守るからこそ語り手を幸せにする。わかりますか?……まだわかりませんか。……まぁいい。……彼等は復讐に生きていました。それを成し得ずして次の人生へ踏み出すことなどできなかった。私が二人を、いや三人を救ったんです。生きる糧を与えたんですからね。……どうです。……素晴らしい完結じゃないですか。そうは思いませんか?……答えられないですか?……君はこのまま聴き手の灯火を照らし続けられますか?……この世界には暗黙の了解なる掟があるんですよ。聴き手としての恒道があるんです。君は私の話に興味を抱き、すでにその掟をいくつか破っているんですよ。……そうでしょ。違いますか?……君……もう……。
常軌を逸した男はすくっと立ち上がり、両手で二度ほどコートをはらい、腹の底から気味の悪い笑い声を上げたかと思えばふらふらと彷徨いながら人混みの中へと消えて行きました。男の言葉はとぎれとぎれにしか聞こえていなかったはずなのに、僕の記憶の中でははっきりと男の言葉が残されていました。
今でも僕には耳鳴りのように何度も幾日も、あの男の声が聞こえてくるんです。
「もうおやめなさい、こんなことは」

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