ただただ青い空

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ただただ青い空

ただただ青い空を見上げる 美月という名の一人の少女 その小さな背中に 柔らかく優しい光が注いでいる 美月はただただ青い空が好き 美月は覆うものが何一つない高みにある青い空が好き 美月はどこまでもどこまでも果てしなく広がる青い空が好き なぜかって? ただただ青い空は美月が大好きなおばあちゃんそのものだから 「美月ちゃん、青い空はね、いつだって美月ちゃんを守ってくれているんだよ。だから、辛いことや悲しいことや苦しいことがあったら青い空を見上げてごらん。きっと美月ちゃんを助けてくれるから」 「そうなの?」 「そうだよ。おばあちゃんが言うんだから間違いないさ」 「わかった。そうする」 おばあちゃんにそう教えてもらってから美月は何かあったら必ず空を見上げた でも、空はいつも青い空とは限らなかった 低く垂れこめた灰色の雲に覆われてしまっていたり 淡い紫色に染まっていたり 薄曇りのかすみがかかっている時もあった おばあちゃんにそう伝えると 「でもね、美月ちゃん。灰色の雲に覆われていたとしても、紫色に染まっていたとしても、その上にはちゃんと青い空があって、いつも美月ちゃんを見守ってくれているから大丈夫。だから、おばあちゃんを信じてこれからもお空を見上げようね」 「そうなんだ。わかった。ありがとう、教えてくれて」 「いい子だね、美月ちゃんは」 まぶしいくらいの春の陽射しが降り注ぐ中を 柔らかな風がすり抜けて 桜がさわさわと揺れている 小学2年生の高橋美月はまばたきをひとつしてベッドから起き上がった 部屋のドアが開いてママが顔を出した 「おはよう。もう起きてたんだ」 「うん」 「今日、学校行ける?」 昨日あることで同級生にからかわれた。 でもママには心配かけたくなくて黙っていたんだけど、凛ちゃんが凛ちゃんのママに話して、凛ちゃんのママが美月のママに話したのでわかってしまった 「うん。大丈夫。凛ちゃんと茉優ちゃんと茜ちゃんがいるから」 美月の友達はこの3人しかいないけど、この3人はみんな優しい でも、美月が一番仲がいいのは凛ちゃん 「そう。でもまた同じようなことがあったらちゃんとママに話してね。ママ、先生に相談するから」 「先生に?」 先生にいいつけられるとなんか仕返しがありそうで怖い 美月の不安をママが察してくれた 「大丈夫よ。先生には絶対誰にも言わないようにお願いするから」 「うん。わかった」 美月は難産だった。それが原因なのかはわからないけれど、少し知的障害があった。背も他の子よりひとまわり小さい。加えて3歳になって間もなく吃音が見られた。ただ、医者によれば吃音は成長にともなって自然に治るから心配ないと言われている。けれど、今でも何かで緊張すると吃音が出てしまうことがある。昨日も学校で何らかの緊張状態があったようで吃音が出てしまったらしい。いじめとまではいかなかったようだけど、からかわれたのは事実と凛ちゃんのママから聞かされた。幸い、美月の友達が助けてくれたのでその場は収まったらしい。ただまた同じようなことが起こらないかという心配はあった。とはいえ、子供同士の出来事に親が口を出すと事態がややこしくなってしまう可能性もあるので、とりあえずは様子を見ることにした。 そんな美月だけど、親の目から見ても天使のような子だった いや、天使だった 純真で真っ白で、まっすぐな心を持っている でも、それだけでなく、時に想像を超えた言動をする不思議な子でもあった 「じゃあ美月ちゃん、気をつけて行ってくるんだよ」 「うん」 「それから、さっき話したように2時には絶対に帰って来てね」 「わかってるよ」 今日は凛ちゃんと近くの公園で待ち合わせて遊ぶことになっていた 家の前の細い道を左に曲がって少し行くと比較的広い道に出る この道は車通りが多いので注意しなくちゃいけない いつもママに言われているように左右をしっかり確認して渡った 見えてきたのは川沿いの道 川はくっきりと空を映していた 頭上で揺れる葉の向こうに目的の公園が小さく見えた 凛ちゃんの姿は確認できない こぼれる光が降り注ぐ川を見ながらゆっくり歩を進めると 足元付近から小さな鳥が飛び去った 見上げると 青過ぎて遠い空に綿菓子のようなかわいい雲が浮かんでいた 石でできた橋を渡るとそこは公園だった やっぱりまだ凛ちゃんは来ていなかった ブランコに乗りながら待っていると 遠くからこちらに向かって走ってくる凛ちゃんの姿が見えた 美月はブランコをぽんと飛び降りて凛ちゃんに手を振った そんな美月に気づいた凛ちゃんもちぎれんばかりに手を振っている あっという間に美月のところにたどり着いた凛ちゃんは、その勢いのまま息たえだえになりながら吐くように言った 「遅れちゃってごめん」 そんなに頑張らなくてもいいのに 優しいなあ 「ううん。大丈夫だよ。美月もちょっと前に着いたばかりだから」 「そう。よかった。たださあ、ママと一緒に出かける用ができちゃって、私10分くらいしかいられないんだ」 「えー、そうなんだ」 ちょっとがっかりしたけど、しょうがない 「うん」 「でも、しょうがないよね。用事があるんじゃ」 「ごめんね。で、とりあえず何して遊ぶ?」 10分でできる遊びなんて限られる 「う~ん、じゃあとりあえずかくれんぼする?」 「そうだね」 結局2人はかくれんぼをしたりブランコを乗ったりして遊んだけど、あっという間に時間が過ぎて、凛ちゃんは帰って行ってしまった 一人残された美月は家へ帰ることも考えたけど、もう少しここで遊びたいと思った しばらくブランコに乗ったり、滑り台などで遊んでいたけど、一人ということもあってすぐに飽きてしまった 時計を見ると家を出てからまだ30分しか経っていなかった 「そうだ。おばあちゃんのお家に行こう」 周りには誰もいなかったけど美月はみんなに宣言するかのように大きな声で言った なんで最初から気づかなかったんだろう。でも、美月は自分の思いつきがすごく素晴らしいことのように思えた 美月のおばあちゃんのお家は公園の少し先にあった 嬉しくておばあちゃんのお家に向かって走り出す でも、なんだか前が見にくい 自分の不揃いの前髪が揺れているせいだと気づく 下唇を少し前に出して息を前髪に向けて吐いてみると調子がよくなった ほてり始めた目元を優しい風が過ぎていく 甘い蜜を溜めた花から美月の好きな虹の匂いがした なぜだかわからないけど鼻の奥がかすかに熱くなる ちょっと立ち止まって深く目を伏せる 静けさの底でおばあちゃんの声が聞こえたような気がする 心の深いところがかすかに震え 胸がきゅっと小さくなる 目を開けると、ふっと光が届いておばあちゃんのお家が見えた 玄関の横の縁側におばあちゃんが座っている 美月のほうを見て嬉しそうにニコニコしているおばあちゃんをめがけて美月は駆け出していた 「転ばないように気をつけるんだよ」 おばあちゃんが自分に向かって叫んでいる それが嬉しくて走るスピードをさらにあげてしまう美月 駆け寄って抱きついた美月におばあちゃんは頭を撫でてくれた 「よく来たね、美月ちゃん」 「うん。美月、会いたかったから何度もここへ来たんだよ」 「そうだったのね。ごめんね。おばあちゃん、ちょっと遠くへ行ってたから」 「遠くって?」 「それは内緒」 「ずるい」 「いつか美月ちゃんにもわかるよ」 「ふ~ん」 「そんなことより、今日は何をして遊ぼうかね。美月ちゃんの好きなお菓子もたくさん用意してあるよ」 「ほんと? 嬉しい」 「とにかく部屋にあがって」 「うん」 おばあちゃんと美月はお菓子を食べながらたくさん遊んだ おばあちゃんは今までと同じように優しかったし、おもしろかった 「美月ちゃん、そろそろお家に帰ろうか。ママが心配してるといけないから」 ほんとうはもっと遊んでいたかったけど、おばあちゃんのいいつけは守ると決めていた 「うん。わかった。帰るけどまた遊んでね」 「いいよ。今度ね」 「今度って、いつ? 前は毎日遊んでくれたじゃない」 「そうだね。前はね。でも待ってて。準備ができたらおばあちゃんが美月にだけわかる合図を送るから」 「えー、ほんと? なんか楽しい」 「楽しみにしてて」 「約束だよ」 「うん」 「おばあちゃん、指切りしてくれない」 「ああ、いいよ」 二人とも思い切り力を入れて指切りをした。その絡めていた小指を離したおばあちゃんが空をさした 「ほら、美月ちゃん。お空を見てごらん」 見上げると何一つ遮るものがないきれいな青い空が広がっていた 「きれいだね」 美月が思いを込めて言う 「ほんとうにそうだね。美月ちゃんの心の中とおんなじ」 おばあちゃんと会っている時は不思議なことにいつも必ずただただ青い空が広がっている 「そうなのかなあ」 「そうに決まってるさ。じゃあ、お帰り」 おばあちゃんが自分の思いを断ち切るように言った 「うん。じゃあ、バイバイ、おばあちゃん」 おばあちゃんに手を振りながら別れを告げた 「は~い、バイバイ。気をつけて帰るんだよ」 おばあちゃんもめいっぱい手を振ってくれた 美月は後ろをみないようにして全速力で公園に戻った もう一度空を見上げると、ついさっきまであれほどきれいだった青い空が暗い雲に覆われていた 気持ちを切り替えて家に帰ろうと向きを変えて歩き出した時だった ママが美月に向かって走ってくるのが見えた その顔があまりに怖くて美月はその場に立ちすくんでしまった ママの姿がだんだん大きくなってきたと思ったらママが美月に抱きついてきた 「美月ちゃん、どこに行ってたの。なかなか帰って来ないから凛ちゃんに連絡したら公園で別れたって聞いたからママ何度も何度も公園に来てみたんだよ。だけど美月ちゃんいなかったから心配で心配で。携帯にも何度も何度も電話したのよ」 そう一気に言った そのママの目からは涙が流れていた さっきまであんな怖い顔をしてたのに 「ママ、何で泣いてるの。それに携帯鳴っていなかったよ」 「うそ~、携帯見せて」 ママに美月の携帯を渡す ママは電源の確認をしたり、着信履歴の確認をしているみたいだった 「どういうこと?」 「美月にはわかんない」 「ともかく、どこに行ってたの?」 「おばあちゃんのお家だよ」 「おばあちゃんのお家?」 ママが今日一番大きい声をあげた 「うん」 ママは何かを考えているみたいだったけど、だんだん顔が真っ白になって身体が震えだした 「そんなこと…」 「おばあちゃんたらさあ、美月を驚かそうとして美月の大好きなお菓子をいっぱい用意してくれてたんだよ」 「そう…」 ママは何かを決意したような顔をして美月の前に座り込んだ 「あのね、美月ちゃん」 またママの顔が怖くなっている 「なあに?」 「ママがこれから言うことをしっかり聞いてね」 「うん」 「ひょっとしたら美月ちゃんは忘れちゃったのかもしれないけど、おばあちゃんはだいたい一年前くらいに亡くなったの」 「なくなった?」 「死んじゃったの」 「ふ~ん」 「ふ~んって、わかってるの?」 「知ってるよ」 「だったらいいんだけど。だから、おばあちゃんには会えないし、おばあちゃんのお家ももうないんだよ」 「でもさあ、美月ほんとにおばあちゃんのお家に行ったんだよ。どうしてママは美月の言うことを信じてくれないの」 悔しくて自然に涙が流れ出た そんな美月のことをじっと見ていたママが美月の涙を自分の両手で拭いながら言った 「ごめんね、美月ちゃん。疑ったりして。ほんとうに美月ちゃんはおばあちゃんに会えたんだね」 「うん。だから、そう言ったじゃない」 「そうだったんだね。良かったね。おばあちゃんもきっと嬉しかったと思うよ」 なぜかママの目からも涙がこぼれていた その涙を今度は美月が両手で拭ってあげながら言った 「美月、おばあちゃんのことが大好き」 「そうだよね。そうだよね。わかってるよ。ママも大好きだよ、おばあちゃんのこと」 「知ってるよ」 「そうね。おばあちゃん、きっと…」 ママがまた泣き出した 身体を揺らしながら ママは何が言いたかったんだろう ママが泣く理由が美月にはよくわからなかったけど そんなママがおばあちゃんと同じくらい好きだ よく晴れたせいか少し冷たい朝だった 昨夜はいろんな思いが交錯してほとんど眠れなかった 寝不足の顔を化粧でなんとか隠してダイニングに向かう 柱時計の時を刻む無機質な音だけが耳に響く 急にそこはかとない寂寥感に襲われる なんとか気持ちを立て直して朝食の準備をしていると夫が部屋に入ってきた 「今日の参列者は何人になるんだっけ?」 「12人」 今日は母の一周忌の法要のためにお寺に行く 美月が母に会ったというのがおよそ一か月前 きっとほんとうだったと信じたい 信じてあげたい いや今は信じている でも母が亡くなったという「現実」を美月はどう受け止めているのだろうか 当然ながら美月は母の葬式に参列している 納骨まで一緒に立ち会ったのだから その現実はいったん受け入れているはず でも、この間母と会ったという美月の姿を見て感じたのは、美月の生きている世界は現実と超現実が混然一体となっていて、そこに堺はないのではないかということだった。 美月ならそれもあり得る 理屈ではない 感覚でそう感じるのだ そして今日の法要である 果たして美月はどう受け止めるのか 張り詰めた空気の中 読経が始まった 母の遺影をじっと見つめていた美月の横顔から涙がツーと頬を伝った その横顔はあまりにも美しく、神々しく、そして悲しくもあった すべてが終わって親戚などを見送ると私たち家族だけが残った 寺の門をくぐり抜けて近くの公園にたどり着く 水気を含んで重くなった春の空気が纏わりつく ふと空を見上げると暗い雲に覆われてどんよりしていた と、その時 雲が一瞬割れて、そこから一条の光が落ちてきて 美月の小さな背中に降り注いだ 次の瞬間 美月が空に向かって浮かび上がっていた そのあり得ない出来事を自分はほんとうのことと信じていた おばあちゃん見たよ 雲の合間から折り鶴が一瞬見えたよ あれは美月がずっと前におばあちゃんのために折った鶴 まさかあれが「合図」だとは思わなかったけど ちゃんと約束を守ってくれたおばあちゃんが大好きだよ 暗い雲をかき分けてかき分けて その上の青い空のところにいるおばあちゃんに会うために 美月が今向かっているよ 待っててねおばあちゃん ただただ青い空を見上げる 美月という名の一人の少女 その小さな背中に 柔らかく優しい光が注いでいる

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