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私の家は海が近く、夏休みの遊びと言ったら海水浴だった。
当時から人より少し泳ぎが得意だった私は、その日も友人達から少し離れた沖の方で泳いでいた。
ゴーグル越しに広がる、緑色の海水と砂底。時折、魚影が視界の隅を通りすぎていく。
そんな視界の隅で、何かきらりと輝くものがあった。
海を泳いでいると、意外と光る物がある。それは岩に含まれた小さな砂粒だったり、ビニールの切れはしだったりする。でも、それはそのどれとも違うようだった。
濁った海水より透明な、何かの塊。
それが気になって、私は底に向かって泳ぎ始めた。見た目より距離があって、浮き上がろうとする体をなんとかバタ足で押していって、その光を拾おうと思い切り腕を伸ばす。
何度か失敗して、ようやくそれをつかみ、水面に上がる。
手の平を広げて見ると、拳大のガラスのウサギだった。まるい背中にそうように伸びる耳。半球形の顔には、目のくぼみに、鼻のでっぱり。小さなシッポはちょっと欠けていて、後ろ足は直接胴に彫りこまれた線で表されていた。
海水の中では透明に見えたけれど、日の下でよく見てみると砂で細かい傷がついて、半透明になっている。結構長い間沈んでいたのだろう。
(なんかかわいいな)
そう思った私は、深く考えることなくそれを持ち帰り、机の上に置いておいた。
その夜、何か臭いを感じた気がして、私は目が覚めた。妙に甘ったるい、けれどどこか嗅ぎ慣れた臭いだった。
ゆっくりと目を開けると、部屋は闇に包まれていた。湿気の多い、じっとりとした夜で、パジャマの背中が不快に濡れている。時計の音がやたら大きく聞こえる。目が慣れてくると、見慣れた自室が広がっていた。教科書や小さなぬいぐるみの置かれた机。本よりも漫画の方が多い本棚。
どこにも変なところはないのに、異臭はまだ漂っている。そこで、ようやくその臭いの正体に思い当たった。
(ああ、そうだ。潮の臭いだ)
瞬間、鼓膜がボコッと音を立てた。高速でトンネルを通った時のようなような圧迫感。
(うわ!)
驚いてゴシゴシと耳を強くこすったけれど、治らない。それどころか、ごぼごぼと泡が顔の傍を通っていくような感覚にまで襲われた。
机の上で何かが揺らめいていた。
天井から、子供の小さな腕がぶら下がっている。ぷっくりとした二の腕、薄い手の平。その先ではウジ虫のように白い指がもぞもぞと動いている。
親のもとへ逃げるどころか悲鳴をあげることもできず、私はただそれを見つめていた。
腕のすぐ横から、黒糸のような物が生えてくる。それは量を増やし、毛束になる。
(あれ、髪の毛……)
小さい鼻が、額が、水面を割るようにして天井板から現れてくる。
小学校低学年の、女の子だった。
恐怖で肺が石になったように呼吸ができない。体が冷えていく。
天井から伸びる髪の先から、ぼたぼたと雫がしたたりおち、机に水溜まりを作り出した。
そのうち顔が現れた。しかめられた眉、ぎょろぎょろと見開かれた目。そしてめくりあがった唇からのぞいた食いしばった歯。
その表情で青白い手を伸ばしている様は、必死にウサギを拾いあげようとしているように見える。
「ひっ!」
その不気味な表情に、私は思わず声をもらした。
その瞬間、耳と胸の違和感が一瞬で消えていた。いつの間にか、水をかぶったように汗をかいていた。
机の上の水溜まりも消えていた。
「なに、な、んなの、今の……」
ようやく呼吸ができるようになると、いっぺんに力が抜けた。
怖い物が消えて安心したのか、そのまま私は眠り込んでしまった。いや、実は気絶しただけかも知れない。
母が、机の上に置いた兎に気づいたのは、次の朝私を起こしに来てくれた時だと思う。
部屋の中に入ってきた母が、悲鳴を上げた。
「どうしたの、これ!」
ただならないその様子に、私の眠気は一気に吹っ飛んだ。
母が机に向かって仁王立ちにしている。
その様子で母が滅多にないほど怒っているのが分かった。
一体自分が何をやらかしてしまったのか分からず、とまどう私に、母はさらに声を荒げた。
「あのウサギ! ガラスの!」
母の指は、ノートのそばに置かれていたガラスのウサギをさしていた。
「う、海で拾ったんだけど」
別に盗んだわけではないのに、なんでお母さんはあんなに怒っているんだろう?
「こんなの拾ってきちゃダメ!」
そのあまりの勢いに、私は「どうして」とは聞けなかった。
まるで直接触るのも汚らわしいというように、母親はポケットから取り出したハンカチを像にかぶせ、ウサギをつかみ上げた。そのまま、足音も荒く像を持って玄関を出ていった。
あの像を捨てに行ったのだろう。
怪談が好きな人なら、母親に霊感があったのかと思うかも知れない。あの像に子供の霊が憑いているのに気づいたのだろうと。
けれど特に母にそんな力はないはずだ。だから私にはなんで母がそこまでガラスの像を嫌うのか分からなかった。
夏休みというのは、多少怖いことがあっても忘れてしまうくらい子供にとって魅力的なものだ。私は気を取り直して遊びまくり、いつの間にか長い休みも後半になっていた。
もう自由研究をする時間がないと気づいた私は、貯金箱でも作ってごまかそうと思った。
たしか、押し入れの奥に使っていない包装紙や布など、使えそうな物がしまったあったはずだ。
ゴソゴソとあさっていると、見慣れない木の箱が出てきた。何かと思って開けて見ると、出てきたのは真っ赤な表紙のアルバム。
開いて見ると、色褪せた写真がずらりと並んでいる。
あまり変わっていない近所の海辺の景色。観光地らしきどこかの寺で笑う知らない男の人と若い父親。そして、立ち並ぶ祭りの屋台を背景に立つ、小学生くらいの子供達。。
我ながらよく分かったと思ったけれど、浴衣姿の女の子の中に、子供時代の母をみつけ、なんだかむずがゆい気持ちになった。
その時、写真の隅に見切れるようにして女の子が立っているのに気づいた。
屋台の前で半円を描くように立つ、浴衣姿の母親と、その友達らしい何人かの女の子。そこから少し離れた所に、街路樹らしい一本の木が立っている。
その陰にうつむき気味に女の子が立っていた。組んだ手をみぞおちに押し付けるようにして、上目遣いでこちらをにらんでいる。
ドクンと心臓が高鳴った。
あの女の子だ。天井から生えてきた子だ。思わず写真を取り落としそうになる。
あの夜ほど必死な形相をしていないが、写真に写る大きい目も、唇の形も間違いなかった。
(どうして、あの女の子が写真に?)
突然玄関でチャイムが鳴り、私は飛び上がった。
どうしてか、私はアルバムのフィルムをめくり、台紙からその写真をはがすと、ポケットにしまい込んだ。
台所で何かしていた母が、玄関に向かう足音がする。
「ひさしぶり」
あいさつする声から、客は母の兄のようだった。おじさんは母と仲がよく、お盆やお正月には必ず顔を見せる。
そうだ。おじさんなら、この写真の少女が何者なのか知っているかもしれない。
その時、「どうしたのこれ」と眉をつりあげる母の姿が頭に浮かんだ。
あの反応を見るかぎり、あのウサギについて調べていることを知られたら怒られるだろう。おじさんだけに写真を見せよう。そのためにはタイミングを見計らわなくては。おじさんが母を残して家を出た時がチャンスだ。
客間で話をする母達の声が一段落するのをじりじりと待つ。
大好きなおじさんに「早く帰れ」と念じるのは少し変な感じだった。
「じゃあ、また」
おじさんが客間を出で、玄関を開けた気配がする。道まで出ただろう頃を見計らって母の横をすりぬけ、私はサンダルをつっかけて走った。幸い、母は追ってきていないようだ。
「おじさん!」
「おお、元気してたか」
あいさつもそこそこに、私はポケットの写真を見せる。
「おお、懐かしいなあ」
おじさんは目を細めた。
「ほら、これがお前のお母さんで……」
「いや、そうじゃなくて。おじさん、この女の子知ってる? 隅っこに写ってる……」
長くなりそうな言葉をさえぎって、例の女の子を指さす。
そこで、おじさんは不愉快そうに顔をしかめた。
「ああ、その子は昔近所に住んでた子だよ。確か××ちゃんっていったかな」
私は黙って続きを待った。
「今でいう放置子だったんだろうな。いつも汚い服を着て、たまに腕にアザを作っていた時もあったよ。親にかまってくれなかったのが悲しかったのか、ひどいイタズラッ子でな。皆の鼻つまみ者だったんだ」
厄介な害獣を語るような口調だった。
「色々な家に入り込んで、食べ物や金目の物を盗っていったり、飼っていた犬をいじめたりな。妊婦さんを階段から突き落としたとかいう噂もあった」
「ひどい」
いくら自分の両親に冷たくあたられているからといって、他人に迷惑をかけてはいけないだろう。
そのとき子供だった私でもそう思った。
「ミカちゃん……そのころ、お母さんと仲良かった子も、殴られて大けがをしちゃったんだ」
「そ、それで、その××ちゃんはどうしたの?」
「それがな」
おじさんは、海がある方向に顔をむけた。
「ある時、海で浮かんでいたのが見つかったんだ。亡くなっていたよ」
「ど、どうして」
「さあ。泳いでいるうちに流されたっていう話だけど……この辺の子には珍しく、その子は泳げないかったから、海に入ったりはしなかったはずなんだけどね」
なんだか、心臓が嫌な風にどきどきしてきた。
「ああ、そうそう」
おじさんはぽつりと付け加える。
「その子、いつもガラスのウサギを持っていたっけ。唯一親に買ってもらった物かも知れないな」
私は再び写真に目を落とした。
みぞおちに組んだ手をよく見ると、何かを落とさないように、半分腹に押し付けるように抱えているのが分かった。色のあせた写真でも、光っているとわかる小さな物を。
頭がふらふらしたのは、夏の強い日差しのせいだけではないだろう。
それからどういう会話をしたのか覚えていない。気がついたら、おじさんと別れ、家に向かっていた。
小さな頭の中を、色々な考えがぐるぐる渦を巻いていた。
あの子は、皆の鼻つまみ者だったと言っていた。
そしてあの時。少女は、必死にウサギに手をのばしていた。なんとか拾い上げようとするように。それにあの悔し気な顔。
あのウサギは、誰かに海へ投げ捨てられたんではないだろうか。そして、それを大切にしていたその子は泳げないのにそれを追って……
そしてその子は、結局宝物を取り戻すことができなかった。海の中に残されたそれを、私が拾ってきてしまった?
もし、私の予想が合っているのなら、ウサギを投げ捨てたのは誰なのだろう?
必死になってウサギを捨てようとした母。
そもそも、広い海に落ちた小さな置物をたまたま見つけるなんて、どれくらい確率があるものなのだろうか。何か、そう、縁とかいう物があったのか?
あくまでこれは私の想像だ。けれど、それを確認するつもりは、私にはない。
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