一人呑み

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「お疲れ様でした~」  飲み屋街の中程にある居酒屋の前で、飲み会の解散間際、なぜ『お疲れ様』と言い合うのか、篠嶋結翔は不思議に思いながらも「お疲れ様です」と周りに合わせて挨拶をした。コートを着込んで外に出たが、妙に空気が生暖かい。そろそろ桜でも咲きそうな陽気だった。  電車の都合や、二次会などで、三々五々、メンバー達が散っていく。  会社の、退屈な飲み会では、ある程度、飲み食いをしているはずだが、なぜか飲んだ気にならない。失態を犯さないよう、酒を過ごさないように気を付けているからかも知れないが、高い参加費を払って、満足感が得られないのは勿体ない。  会社の人たちを避けるようにして、結翔は飲み屋街の奥へと歩いて行く。  まだ、夜九時。終電まであと二時間ある。飲み足りない結翔は、大抵、そのあと、一人で二軒目に行くことにしていた。  居酒屋は、一人で入ることが出来るので、気楽な物だった。  別にいきつけの店を作っていないので、暇そうで、美味しい酒を出しそうな店を見つけて暖簾をくぐる。  カウンターのみの小さな居酒屋だった。カウンターの中に、料理人の白服をキッチリ着込んだ、小柄な大将が一人で料理を作っている。客は、三名。空き席が二つあった。 「こんばんは。大将、一人だけど大丈夫ですか?」 「どうぞ。……うちは、十時でラストオーダーですけど、大丈夫ですか?」  それならば、丁度都合が良いくらいだろう。 「大丈夫です。ありがとう」  コートを脱いだ結翔は、席に座って、とりあえずビールを頼んでから、気になる料理をいくつか頼んだ。  突き出しが、にゅっと差し出される。二皿だった。ついで、ビールが差し出された。  ビールを一口飲んで、突き出しに手を付ける。 「うわ……すごい……美味しい」  ほっくりしたジャガイモの感触が残る、ゆで卵がたっぷり入ったポテトサラダと、スキッとした甘さが心地よい、鰺の南蛮漬けだった。どちらも、突き出しにしてしまうのが勿体ないくらい、美味しい。 「お口に合ったようなら、良かったです」  大将が、照れたように笑う。大分年上の、小柄な大将は、笑うと可愛らしかった。  注文していた、刺身をカウンター越しに出される。綺麗な色合いのマグロと、ハマチの盛り合わせだった。一人前のはずだが、かなりボリュームがある。 「美味しそう!」  もうそろそろビールも飲み終わるし、日本酒でも貰おうかなと結翔が考えて居ると、ガラッと戸が開いて、客が一人、入って来た。 「大将、一人だけど大丈夫……?」  なんとなく聞き覚えのある声がしたので、チラっと視線を遣ると、そこに居たのは、課長だった。四十後半、とは聞いているが、それより幾らか若く見える。背が高く、何かスポーツをしていたような、引き締まった身体付きをしていた。 「え、なんで課長……」 「お前こそ、結翔……」  空き席は、結翔の隣しかなかった。  そこへ、課長の大崎が、静かに座る。 「まあ……、お前も、そうだと思うが……、一人飲みってことで……お互い、気を遣わないようにして貰えると助かるよ」  大崎は、そう言いながら、出されたおしぼりで手を拭いて、日本酒を熱燗で注文した。 「そうして頂けると、俺も、助かります……」  結翔は、今年入社した新人だ。あと一月もすれば新人ではなくなるが……普段、新人の結翔が、課長と直々に会話をすることなど、ありえない。雑談するにも、遠い人だった。  職場での大崎は、科目で、黙々と仕事をして居る印象だった。だが、自分の部下である係長達を統率して、プロジェクトを、確実に遂行している。それが当たり前なのだと思ったが、他の課をみると、そうでもないらしいと言うのがわかったので、結翔としては、怒られた経験は無いが、なんとなく怖い人というイメージだった。  刺身を突いていると、す、と隣からおちょこがやってきた。熱燗が注がれている。 「……一人飲み、じゃなかったんスか?」 「偶然居合わせた客が、刺身に合う酒を一杯ごちそうしようってだけだよ」  大崎は、ぶっきらぼうに言いながら、おちょこを受け取るように促す。 「じゃ……どーも、有り難く頂きます。見知らぬ、お客さん」 「どういたしまして」  奇妙なやりとりだが、悪くはなかったし、酒は、刺身に良く合った。日本酒は、熱燗にすると、ほんわかとした印象になる。優しく薫りが花ひらいているような雰囲気だ。それが、脂ののった刺身と良く合った。 「あっ、うま……」  思わず声を出してしまうと、となりから「だろ」と小さな声が聞こえてきたので、結翔は笑ってしまう。  ラストオーダーの時間まで、一人なのか二人なのか解らない飲みをして、同じくらいに引き上げて、大崎と一緒に駅まで帰った。  それから、会社の飲み会の帰りや、強制的に定時で仕事を終わりにして帰宅させられる『健康デー』の日などは、大崎と出くわすことが多々あった。三回に一回くらいの割合で大崎と遭遇するが、一緒に飲みに行ったことはない。  違う店に行っても、出会うのだから、なんとなく嗅覚が一緒なのだろう。  新人も入って来て、結翔も忙しくなり、ストレスもたまってきた。そのストレスを癒やすのが、この一人呑みだった。  もう、夏の盛りになっていて、クーラーが効いていても、焼き鳥屋の店内は、熱気が凄くて汗が出るほどだった。こういうときは、スキッとしたハイボールが良い。ハイボールと焼き鳥の盛り合わせを飲みながら、隣の大崎の食べ物を見ていると、なにやら美味そうな煮込みを食べている。 「美味そっすね、それ」 「ん? モツ煮だよ、鳥のね。食べてみる?」  小鉢に入った茶色いモツ煮には、針金みたいな細さに刻まれた生姜がたっぷり載っている。 「生姜と一緒に食べると美味しいよ」  言われたとおりに食べると、こってりして滑らかなモツは甘辛くて、それと生姜の爽やかな香りが、たまらない組み合わせだった。 「うわ、本当に美味しい。……大崎さん、美味しい食べ物、沢山知ってますよね」 「……君が、僕に話しかけてきたの、初めてだって気が付いてる?」  結翔の問いには答えずに、大崎は小さく問う。 「えっ?」  たしかに、そんな気もしたが……あまり意識はしなかった。 「まあ、いいよ……あちこち、飲み歩いてればねぇ。そりゃ、詳しくもなるよ。接待なんかもあるからね」 「接待……っスか」  会社の金で飲み食いをする、というイメージだったが、結翔にはピンとこない。いままで、接待の場所に、呼ばれたことはなかった。 「いずれ、接待なんかも、やっていくことになると思うよ」 「じゃあ……今度、モツ煮のお礼に、大崎さんのこと、接待させてくださいよ」 「えっ?」  大崎は、怪訝そうな目をして、結翔を見やる。気持ち良く酔っていたのが、一気に冷めるような、嫌な眼差しだった。 「えっ、あっ……接待というか、一緒に飲みに行きましょうよってことです」 「君と二人で?」 「そーっすよ。……なんか、結構な回数、一人呑みで合流するじゃないですか。だから……」  なんとなく慌てて言い訳を重ねる結翔を見て、一瞬、呆然としていたが、すぐに、顔をくしゃっと崩して大崎は笑った。 「わかった。じゃ、俺から招待ってことにするよ」 「えっ? でも……」 「……来月の、健康デー。開けとけよ。店、予約しとくから」  ははは、と大崎は笑って、一気に日本酒を呷った。  なんとなく、結翔は、大崎がずっと、結翔を誘いたかったのではないか―――と思っていた。  大崎が予約してくれたのは、接待で使うような、割合、格式の高い店だった。割烹ということだった。 『こういう場所は、接待が、ぶっつけ本番だと、大体大失敗するからな』とのことだった。  毎月七日の『健康デー』。  大崎と予約していた、その約束の日、大崎直属の部下たちは、みな、斎場に居た。今まで、喪服を持っていなかった結翔は、レンタルにしようかと思ったが、先輩に『社会人なんだから、喪服を買った方が良いぞ』と言われて、促されるままに、喪服を購入した。スーツ量販店の喪服だった。間に合わせのようで心苦しくなったが、告別式まで、時間が無かったから、仕方がない。  大崎は、通勤途中に、暴走した車に撥ねられて亡くなった。  それが五日前のことだった。  最初、大崎の死去を信じられなかった結翔だったが、それ以前に、『現実』が待っていた。  悲しんでいる間も与えられず、大崎が亡くなったことを、取引相手などに連絡しなければならなかった。大崎が亡くなっても、取引相手の商売は、止まらない。先輩達と手分けして、一日中電話をかけ続けた。大崎の抱えていた仕事、取引先そのほかのことを全て洗い出して、皆でなんとか、〆切が早い物からこなしていく。ここ数日、課員たちは、会社で寝泊まりすることになった。  大崎の告別式を終えて、火葬が終わるのを待っている時、結翔の携帯電話に着信が入ったのに気が付いた。周りの迷惑にならないように、外へ出る。斎場の雰囲気とは、うって違って、目が痛くなるほど、まばゆい青天だった。 「お世話になっております、割烹の『ふじの』でございます」  それは、今日、大崎と行く予定の店だった。 「大崎様にご連絡が取れなくて、ご同行のご連絡先をお伺いしていたものですから、お電話させて頂きました」  女将らしき人の、柔らかな声が、胸に刺さる。今日、一緒に行く予定だった人は、もう、居ないのだ。声が、出なかった。 「あの、もしもし……?」  電話先の女将が、心配そうに言う。 「あっ、済みません……。その……大崎さん、交通事故で、亡くなったんです……済みません、ご連絡しなくって……でも、俺一人になりますけど、伺いたいです。良いですか? 代金も、二人分、払います」  割烹のことなど、忘れていた。  けれど今、女将からの連絡を貰って、行きたい、と思った。ややあって、女将が、「……では、お待ちしております」と掠れた声で応じたのを聞いてから電話を切った。  空を見やれば、雲一つない青空に、火葬炉から白い煙が、ゆうるりと立ち上っている。あれが、大崎なのだろう。目頭が、熱くなったのを、必死で堪える。 「なんだ、結局、一人呑みじゃないですか」  結翔の小さな文句は、風に攫われて空へ消えていった。  了

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