774人が本棚に入れています
本棚に追加
序
薫風がどこからともなく部屋の中へそよぎ、襟元を撫でていく。
柔らかな春の日差しが、障子を透かして部屋に差し込んだ。
「とても綺麗よ、文緒」
「ありがとうお母様」
帯を締める母の菜穂子に、本條文緒は微笑み返す。
白地に淡く藤色が滲むようにぼかし染めが施された振袖。この振袖を母はとても気に入っていて、よく文緒にも見せてくれていたものだった。
袖を通した正絹の光沢がわずかに光を含んで、艶やかに輝きを増す。その柔らかく上質な手触りに自然と背筋が伸びる。
「お支度はよろしいでしょうか」
廊下から聞こえてきた女中の声に、文緒は小さく息を吐き出した。
「もう少しです」
鏡台に映る自分の姿を見つめる。
「本当にいいの?今ならまだ……」
菜穂子の口からほろりと零れ落ちた言葉に、文緒はほんの少し胸が締めつけられる。
まだ、引き返せる―――
そう言いたげな菜穂子に文緒は小さく、けれどもはっきりと首を振った。
唇をきゅっと引き結んでから、肩に置かれた菜穂子の手に自分のそれをそっと重ねる。
今日、文緒は綾羅城家へと嫁ぐ。
その夫となる人は、綾羅城家の令息――綾羅城空黎。
帝都の妖討伐において、その圧倒的な力から『稀代の才能』と謳われた最強呪術師。
そして、不治の病に蝕まれ余命一年を宣告された身でもあった。
最初のコメントを投稿しよう!