記念日
ふっと意識が浮上したあと。アラームが鳴っていないことを喜ぶべきか悲しむべきか。遮光カーテンの向こう側は見えない。あとどれくらい寝られるだろうか、と枕元のスマートフォンを手に取る。
ぱっと明るくなった画面は暴力的な眩しさで、きゅっと自然に視界を縮めていた。だから、その衝撃は一瞬遅れてやってきた。
「――は?」
静かな室内に自分の声が大きく響き、思考を整える間もなくベッドから飛び出す。
「響っ!」
向かいのドアを勢いよく開け放てば、室内は俺の部屋と同じ薄暗さに染まっていた。真っ白な布団の膨らみが動き「恭、うるさい」と掠れた抗議の声が返ってくる。いや、そんな場合じゃないから。
「もう八時だぞ!」
「――は?」
こういうときの反応ってみんな同じなのかな。一瞬のフリーズの後、響がヘッドボードの目覚まし時計をひっつかむ。
「うわ、マジじゃん。なんで起こしてくれないの」
「俺だってまったく同じ状況だったんだよ」
「最悪。この忙しい時期に遅刻とか」
「電車遅延してねえかな」
「もう休みたい」
洗面所と部屋を行き来しながら、互いに必要最低限の準備を整える。それにしても、ふたりしてアラームかけ忘れるなんて、よっぽどだよな。そういえば昨日は仕事から帰ってきてそのままベッドへ直行したから響の顔も見ていない。
こういうすれ違いを防ぎたくて一緒に暮らし始めたのに。そうだ、一年前のちょうど今ごろも……。
「あっ!」
「なに? どした?」
悲鳴に近い声が聞こえ、慌ててリビングへと駆け込む。ネクタイを結びかけたままの響が、テレビの前に立ち尽くしていた。
「なに? やばいニュース?」
自分たちが会社に遅刻することよりやばいことなんて今はないと思うのだけど。響の視線を追っていけば、いつもは見られない時間帯のニュース番組が流れている。ちょうど天気予報に変わるところだった。
『――春分の日の今日は』
聞こえた言葉がすぐには飲み込めない。春分の日。春分の日。つまり、今日は……。
「祝日?」
おそるおそる言葉にすれば「はぁー……」と隣から盛大なため息が返ってきた。
「お前なあ。めっちゃ焦ったじゃん」
「俺だってマジで寝坊だと思ったんだって」
「絶対いまので寿命縮んだんだけど?」
「俺も。心臓めっちゃバクバクしてる」
ワイシャツの上から押さえれば、元気のよすぎる鼓動が手のひらに伝わってくる。
「あー、もう。恭のせいで無駄に起きちゃったじゃん」
するりとネクタイがシャツと擦れ合う音が響き、「どうしてくれるんだよ」とへの字に曲がった唇が突き出された。あれ、と浮かんだ問いが、トンと心臓を揺らす。
「いやいや、無駄でもなくない?」
「せっかくゆっくり寝られるところだったのに? そもそも恭が……」
吐き出される文句を口で塞げば、ん、と声になる前の息が落ちてくる。唇の柔らかさを味わいながら「キスするのいつぶりだろ」と先ほど浮かんだ問いが頭を巡る。同じ部屋で生活しているのに、こんなに触れられないことあるんだな。胸がきゅっと痛くなって、ようやく味わうことができた熱に心地よさが増していく。起きたからこそいまがある。全然無駄なんかじゃない。
「ん……、きょ、う」
きゅっとシャツが握られたのを合図に、腰を引き寄せ、舌を割り入れる。吐き出される息が重なり、内側から求め合えば、いまが朝だということも、着替えたばかりだということも(会社には行かないからどうせ着替えるんだけど)どうでもよくなる。
「……響」
きょう、と息だけで呼ばれた名前を掬い取るように舌を動かせば、小さな震えが声とともに落ちてくる。名前を呼ばれるたび、お腹の底へ熱が溜まっていき、じわじわと体温が上がっていく。
ほしい。舌先で歯列をなぞっても、顎裏を撫でても足りない。口の中だけじゃなくて、響をつくる全部に触れたい。
「ひびき」
一瞬でも離れたくなくて、口を塞いだまま、シャツの裾を引っ張りだす。ベルトを外すのももどかしく、できた隙間へと手を伸ばす。響の弱い場所なんて知り尽くしている。腰の後ろを指先で辿れば「あ、やっ……」と震えた吐息が隙間に落ちてきた。
足の力が抜けたのだろう、シャツを掴む力が強くなった。十分な広さのないソファよりはベッドに行きたい。互いの部屋まではほんの数メートル。でも、その数メートルさえいまは遠く感じてしまう。せめてもう少し、と唇を重ねたままバックルに手をかければ、張り詰め具合がわかってしまい、心が急くのを止められない。やっぱりこのまま――。
「待って」
ベルトを外そうとした手を止められる。
「さすがに、ここじゃ……ちょっと」
きゅっと寄せられた眉。逸らされた視線。耳も頬も赤く、シャツを掴む手は何かに堪えるように力が入っている。
「明るすぎるし、ソファ汚したくない、し」
――ソファ買ったばっかだろ。
むっと尖った唇と上目遣いに、記憶が重なる。ああ、そうだ。ここへ引っ越した日、届いたばかりのソファに並んで座っていたら、そういう雰囲気になって、それで……。
「あっ」
「なに?」
「今日、記念日じゃん」
「……あっ」
年明けからの繁忙期は年度末である三月が一番忙しい。年末年始を心のまま触れ合って堪能したあとの日常で、俺たちは顔を合わせることすらできなくなった。もう限界、と一緒に住むことを決め、いまの部屋へ引っ越したのは去年のこと。
同棲一日目、引っ越しの日に「これからもずっと一緒にいてほしい」と伝えた。ちょうど一年前の春分の日に。
さすが繁忙期。ふたりして記念日を忘れるとは。
「えーっと」
一度途切れた雰囲気に、自分たちの状況が突きつけられる。晴天を告げるニュースの声。ベランダから伸びる日差し。爽やかな朝の空気には不似合いな、着たばかりの衣服を乱す自分たち。南向きの部屋は明るすぎて、見渡す必要もないほど鮮明に姿を浮かび上がらせた。
「どう、したい?」
思わず尋ねていた。朝の光に縁取られる自分たちがあまりに不似合いでおかしくて。
正直な気持ちを言えば、続きをしたい。記念日を思い出したことで愛おしさは増してしまっている。一年変わることなく一緒にいられたことが嬉しい。記念日を忘れるくらいの日常も、一緒に思い出したことも、最近触れられていなかった分も含めて愛したかった。
「どうって」
響が視線を揺らす。手は変わらずシャツを掴んだまま。素直に頷いてはくれないけど、言葉もくれないけど、十分すぎるくらい伝わってくる。離れがたく思っているのは、俺だけじゃないって。
「よし、やるか」
「は?」
ぎゅっと抱きしめれば、互いの熱が消えていないことは明らかで、そのまま擦り合わせたくなる衝動を抑えて体を離す。
「響の部屋でいい?」
するりと手を取り、指を絡ませる。手を繋ぐ必要なんてない距離だけど、だからこそ触れていたい。
「……いいけど」
「祝日サイコーだな」
響の匂いで満ちる部屋で響を抱ける。これ以上しあわせな休日なんてない。
最初のコメントを投稿しよう!