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薄暗い夕方。
今日も残業だった。
疲労感に包まれた体で職場のある歓楽街を出てだらだらと家路につく。
浮腫んだ足が前に出ることを拒否するし、多くの患者に振りまいた笑顔のせいで頬の筋肉が強張っていた。クリニックを出てから何度溜息をついたか分からない。とにかく歩いて、開店しているのか判断できない中華料理屋の前を通り、目印の税務署を左折する。
現れたのは彼女――羽山氷(はねやまこおり)の住処であるアパート。
薄水色の屋根に白い外壁は最近塗り直したもので外見上は新しいが、室内は築四十五年分の年月を経ているなりの古さである。そんな経年劣化の進む部屋を目指して鉄階段を上る。
外廊下で二〇四と書かれたドアの前に立ち止まり、開錠して入った部屋は、愛用の柔軟剤の香りで満たされていた。右手にキッチン、左手にトイレと脱衣所と風呂のあるを廊下を通り、八畳のリビングに入る。そしてぐったりと膝をついた。
「疲れた……」
声は冷たい床板に吸い込まれた。
その場にごろりと横になる。
誰もいない部屋は孤独だが、人目を気にしなくていいから気が楽だ。高校卒業から十三年間の一人暮らしを経験し、気付いたことは自分は他人と暮らすのに向いていないということだった。床で寝ても、夕食がカップラーメン続きでも、着るものが無くなるまで洗濯をしなくても、自分だけのことならば不健康だとかだらしないとか言われなくて済む。
五月になっても出しっぱなしのこたつ。床を這い、体ごと潜り込む。ふわふわの掛け布団に包まっていると赤子に戻った気分になった。
心地よさに瞼が落ちる。
このまま寝てしまいたかった。
しかし、ああ……駄目なのだ。
メイクもしているし。ていうかこれは昨日のぶんのメイクで、それを今朝再びファンデーションで塗りつぶしているのだ。そもそも昨日は風呂にも入っていない。
――今日は絶対入らなければ。
そう強く思い、激しい焦燥感に追われているのに。疲れた体はままならない。――強烈に眠い。
「ああああああ」
地獄の底から響いてくるような潰れた呻き声を発してみても都合よくやる気など出なかった。
だって眠いのだ。本当に眠い。今日も仕事を頑張ったし。コミュ障なのに沢山喋ったし。
もう、楽になってもいいよね…………。
死ぬ間際みたいな台詞を思い浮かべながら、瞼のシャッターを下ろす。
重たい体が浮くような幸福感。
意識がゆるやかな波に攫われ沈んでいく。
海底は温かかった。
突然の音にはっと目を覚ました。
ピンポーーーーーン。
インターフォンの音が鳴った。
起き上がって見ると、開けっ放しの窓からは濃い闇が溢れていた。放っりぱなしの鞄を手繰り寄せて携帯を取り出すと、明るい画面には二十三時を過ぎた時間が表示されていた。
こんな時間に誰。
不気味な来訪者の正体に記憶を巡らすも、連絡も無しに来るような無法者は友人にいない。
そうしているうちに、玄関の外で外廊下のコンクリートを後退るような音がした。僅かな音だったが、それには相手の戸惑いと困却が混じっているように聞こえた。
氷は意を決して立ち上がり、足音を立てないように廊下を進んだ。そして慎重に玄関ドアに張り付いてドアスコープに右目を近づける。
蛍光灯の白い光の下に、夜の色を染み込ませたようなジャージが見えた。広い肩幅と厚い胸板。日焼けした顔には目尻の釣り上がった瞳と薄い唇がくっついている。頭は、まるで野球部のような――一センチほどの長さに刈った坊主頭だ。全体像を見れば、大人びた顔立ちはしているか本当に高校生のように見える。
氷は見知らぬ若者の来訪に困惑した。
しかしすぐに年少者の窮地を想像して、そして職業柄備えている度胸を発揮して、勢いよくドアを開けた。そして上背のある少年を見上げ、
「何かご用ですか?」
と兢々としながらも声をかけた。少年は驚き瞠目した後に、気まずそうに視線を逸らして「遅くにすいません」と丁寧に言った。
「隣に住んでる者なんですが、……あの、お風呂を貸してもらえませんか」
氷は言われたことを飲み込むのに瞬き十回ぶんの時間を要した。
流石に見知らぬ異性を部屋に招き入れるのは危険だ。そういう常識はあったので、氷は断ろうと思った。しかし少年があまりに目を合わせないので、その初心さと居心地の悪そうな態度に何故か毒気を抜かれてしまい、気付いたときには彼を連れて部屋の中へ戻っていた。
決して片付いてはいない部屋で粛々と正座をした少年は、こたつを挟んで向かいに座った氷に深々と頭を下げ、「夜中に突然すみません。お風呂を使わせて下さい」と再び硬い声で繰り返した。
氷はその言葉に、ごくりと唾を飲み込んだ。
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