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「明日からあんまり来れないかも・・・・」そう言って試した事もあった。
私に関心を持って貰いたかったのだろう。
「お母さんに怒られたの?」
「・・・・」
「お母さんは正しいよ。知らない人間は警戒すべきだ」
あの人は真っ直ぐ前を見たまま、笑った。
いつもそうだ。こうやって話をするようになっても、あの人が私を見る事はない。たまに目が合っても、その虚ろな瞳が私を捕らえる事はないのだ。
いつも此処ではない何処かを、私では無い誰かを見ていた。
だからあの日、気づくべきだった。
その日彼はとても機嫌が良かったらしく、饒舌だった。今にして思えば様子がおかしかったのだ。けれど子供だった私は、それをプラスに受け取った。
私が信頼されたのだと。嬉しくてつい距離が近づいている事に気がつかなかった。
不意に自分の頬にひんやりとした感触が伝わる。彼の手が私の頬を撫でていた。
余りに現実身に欠ける出来事で、間近で見詰められているにも関わらず、恥ずかしさ等は湧いてこない。
私はぼんやりと――体温の低い人だなぁ・・・・などと頭の片隅で呑気に考えていた。
頬を撫でていた彼の手が、私の後頭部へ回る。そのまま引き寄せられ、唇に優しく噛み付かれた。
何だか解らないまま、行われるそれを脳が理解するまでにかなりの時間を要した。
ゆっくりと離れると「さようなら」とあの人は初めてその目で私を真っ直ぐに捉えて言った。
あの「さようなら」と言うあの人の声が、未だに私の中で響いている。
この時、去っていくあの人を何で引き留め無かったのだろう。後悔しかない。
一週間後、廃屋の片隅で遺体が見つかった。あの人の遺体だ。首を吊って亡くなっていたらしい。
その人が、都会で恋人を殺して逃げて来たのだと知ったのは、その出来事があった直後の事。
あの頃、自分の中にはそう言った感情は無いと思っていた。
だからニュースを見た時、「ああ、あの人はこの女性の事を考えていたんだ」とやっとすっきりとした筈なのに、何故悲しいのか、なぜ気分が悪くなったのか解らなかった。
この頃の私は、自分が他人を好きになるなんて絶対に無い、あの人に興味を持ったのも好奇心からだ、と考えていた。
自分には何かの感情が欠落していると思い込んでいたからだ。
まぁ、十代の子供なんて、そもそも何もかもが足りないのだけれど、思い込んでいたのだから仕方が無い。
特にそう、人を求めるとか、求められたい、とか。他人を好きになると言う感情が、私にはよく解らなかった。
だから、それが初恋だと意識したのは、随分と後になってからだ。
それ位私は疎かった。
そして、今もあの人に打ち込まれた楔は抜けていない・・・・・・。
甘い言葉も戯れも、別段心に残るようなそれは無かった筈なのに、この坂のこの階段に、今も私は座ったままだ。
高校を卒業後、東京で就職をして三人ほど付き合った経験もあるが、どの人も上手くは続かなかった。
皆口を揃えて言うのだ、「君といても、虚しいんだよ」と。
私の心にあの人がいるせいだ。私があの頃感じた虚しさを、彼らも感じていたのだ。
そんな中・・・四人目に出会った諒一だけは違っていた。
私が時折、虚ろになっていても、じっと隣で待っていてくれる。抱き締めてくれる。
そんな優しい人だった。だから、今度は私が逃げたのだ。
何だか、彼の人生を無駄にしているような申し訳ない気持ちになって、逃げてきた。
階段に座って風景を眺めながら、「さようなら」と目の前の景色に呟いて、私はひとしきり泣いた。
実家に帰ってから三ヶ月、私は近所のスーパーにパートに出ている。
諒一も、もう新しい生活を始めている頃だろう。
「あら!ハルちゃん!いつこっちに帰ってきたの?」子供の頃からの知り合いに、興味津々で聞かれるこの質問にももう慣れた。
「三ヶ月前です」
「そう。お母さん喜んでるんじゃない?」
「どうでしょうねぇ」
穏やかな日々だ。誰に気兼ねする事の無い、自由な日々。
休みの日はあの階段へ行く。あの人と自分に会いに。
だから、今日もいつものように坂を上った。いつもの休みと変わらない日を過ごす為に。
そうして、坂を上りきった所で足が竦んだ。
階段の一番下、あの人が座っていた場所に誰かがいたから。
心臓が痛いくらいに速まり出す。
その人が顔を上げた瞬簡に、世界がグラリと揺れた。
諒一・・・・
「ハルさん・・・・よかった会えて」
目の前で笑うその穏やかな笑顔は紛れも無く、諒一のものだった。
「なんで?」
「ハルさん家、行くの難しいね」そう言って彼は、紙切れを一枚見せて寄越した。
「相変わらず方向音痴ね・・家はもっと下よ?」
「そっか・・・・」
二人で階段に腰を掛けた。
「何で来たの?」
「うん・・・ハルさんはね俺より大人だし、俺の事を思って姿を消したんだろうと思った」
「別に歳が三つ上なだけで大人じゃないわ」
訂正して笑った。本当に何も考えなんて無かったからだ。
「私が諒一といるのが辛くなって、勝手に置いて逃げたのよ」
「そっか・・まあいいや。俺は勝手にそう思って追いかけるのはよそう、最初はそんな風に思ったんだけど」
「それで正解だと思うわ」
「ハルさん・・・・」
「・・・・・」
「やっぱり自分の事は自分で決めたいんだよ」
諒一が何を言っているのか解らなかった。
解らずに次の言葉を待っていると子供のように純粋な、でもどこか憂いを帯びた瞳で私を真っ直ぐに捉え諒一は、はっきりとその言葉を口にした。
「俺はハルさんがいないと嫌だ」
「でも・・・」
「知ってたよ?ハルさんが俺じゃない何処かを・・誰かを見てること・・」 私は息を飲んだ。やっぱり、彼にも辛い思いをさせて来てしまっていたのだ。
「だから・・・姿を消したのよ?」
「うん、そうじゃないかと思った。でもね、ハルさん…俺にはあのさよならは、助けてって聞こえたから」
彼は、私の手を取ると、やんわりと笑った。私は今、どんな顔で諒一を見詰めているんだろう。
笑った諒一の顔が、涙で歪んでいく。そっと諒一が私を抱き竦める。
「だから・・・・一緒に帰ろう」
優しい声色とは裏腹に、その腕の力が余りに強くて、また・・・・泣けた。
END

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