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魔法の鏡
ママは、私が小学校六年生の時に死んだ。
重い病気で長く入院していたけれど、最後の三ヶ月だけ治療はやめて家にいた。
「最期くらい、楽しく家で過ごしたいわ」と言って、笑顔で学校帰りの私を迎えてくれた。病気をする前は仕事で遅くまで働くこともあったから、ママが家にいるのが嬉しくて、でも不安と心配が頭の中をぐるぐるしていた。
雨が降る前の、灰色の雲でいっぱいの空みたいな、どんよりした気持ちがおなかのあたりにたまっていて、それはずっとずっと続いていた。
「学校行きたくないよ」
ある日私はそう言った。「朔美、まだ寝てるの?」とママが心配して部屋に入ってきた時だった。私はまだベッドの中で、とっくに起きていたけれど体が重くて苦しかった。
「あら、どうしたの?
学校でいやなことでもあった?」
ベッドに座ったママにしがみつく。前より細い体が頼りなくてこわかった。
「ずっとママといたい。ママ死んじゃうんでしょ」
言ってしまうと、ぽろぽろと大きな涙があふれ出した。
ママは困って、「そうねぇ……」と腕を組み考えだした。私は泣きながら、どうしてママはこんなに落ち着いているんだろうと思った。
入院している時は「遠足のお弁当作ってあげられなくてごめんね」とか「やりたいこといっぱいあるのに体が言うこときかなくてくやしい」と話していた。
パパの前ではたくさん泣いたって聞いたのに、退院して家に帰ってからのママは泣き言を言わなくなった。いつもにこにこしていて、楽しそうで、でも頭の毛は全部抜けてウィッグをつけているし、少し動いたらソファでよく休んでいる。体力がなくなっているんだ。
「学校は行かなきゃ。朔美のためだもの。勉強して、大人になるための力をつけていくのよ」
「やだよ。こんな気持ちで学校行きたくないよ」
私の涙は、ママのエプロンをぬらした。苺のイラストと、フリルがついたかわいいエプロンだった。
ママは私の髪を優しくなでて、
「そうしたらね、ママがいいものをあげる」と言った。
「いいもの?」
「そうよ。ママの部屋に大きな鏡があるでしょう?」
「うん」
「あの鏡に魔法をかけるわ」
私はきょとんとした。ママの部屋にある鏡は全身が映る大きなもので、ママはよく着替えた時にくるりと一回転してポーズをとっていた。アンティークの鏡、なんだそうだ。木の枠に綺麗な模様がついていて、ママのお気に入り。
「ママ、魔法使えるの?」
「そうよ。
朔美が学校に行ったら、鏡に魔法をかけてあげる。
ママがいなくなった後、つらくなったら鏡を見て。きっと元気が出るから」
「ほんとに?」
「ほんとよ」
私は信じられなかった。魔法なんて、絵本やテレビの中の話なのに。
だけどママがとてもきれいな笑顔だったから、「嘘でしょ」と言うことはできなかった。嘘だとしたって、私を想ってくれてのことだから。
結局私はその日、遅くなったけど家を出て学校に行った。ママは家の前の道路まで出てきて、嬉しそうに手を振っていた。
小学校の卒業式まであと一ヶ月、という日の朝、ママは起きてこなかった。眠ったまま、天国に行ってしまった。

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