鏡に私はナニヲ見ル

1/5
前へ
/5ページ
次へ
 ピアノの音。  一音一音があって、音階が生まれて、メロディーになっていく。あの音が好きだった。粒が重なり合って広がっていく様は、大人になってからやっと良さが分かるようになった。子供の頃はクラシック音楽など勉強だけのもので、好きとはどうしても思えなかった。  薫風。  この言葉には、ピアノの旋律がとても合うと思っている。新緑の中吹き抜けていく風は、きっと爽やかな音色を鳴らすのだろうなと。葉擦れの音、木々のざわめき、小鳥の鳴き声に混じるピアノの音を私は時折聞きたくなって、仕方なく公園の奥にある林を歩きながら、スマートホンでショパンを流す。生音じゃないにしても、せめてもう少し音響を良くしたいがこればかりは妥協するしかない。もうとっくに桜の花も散って、道路に落ちた花弁すらなくなったこの季節は、私が一番好きな時期だ。瑞々しい黄緑や緑がないまぜになって、もうすぐ夏だよという香りを届けてくれる。青くて澄んだ、その香りを。  憧れの人がいた。同時に、嫌いな人がいた。私の職場は、いろんな人間の宝庫だった。人間観察には事欠かないけれど、心も一緒に忙しくなる場所だった。一緒に――一緒に居る人を選ぶのは難しい。人間関係を円滑にするために振りまく愛想は、ランチを誰かと一緒にしなければならないことと同じだった。仕事でチームが組まれれば、その人間ももちろん選べない。子供の頃なら、好きな子を選んでグループを作れたのに、と考えたとき、いや、子供の頃も空気を読んで輪に入っていたような気がして笑ってしまった。学校が社会に出るための助走なのだとしたら、それは正解だったのかもしれない。私はしっかり、おなじ道を歩いている気がする。  憧れの人。  それは先輩の辻彩夏だった。仕事は完璧、スタイル抜群で、彼女が歩けばほとんどの男性社員が振り返る。そんな人だった。私は、彼女のその精確な仕事、なにより人望と美貌に憧れていた。私には届かないもの。私は、けして仕事ができないタイプではなかったし、容姿はいたって普通だった。だから、彼女に会うまでは大して自分に対する不満もなかったのだ。満足しているかといえば話は別なのだけれど。それが、彼女に会ってしまった。人は自分を映す鏡という。彼女に対して私はなにを見ればよかったのだろう。彼女を通して、私は私のなにが見えるのだろう。  仕事が早い方ではなかった。その代わり丁寧に仕事をこなす私は、すこしゆっくりながらにきちんと仕事をこなすタイプだったのだ。彼女には精確さに加えて速さがあった。

最初のコメントを投稿しよう!

3人が本棚に入れています
本棚に追加