あの日の香り

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今になって思えば、私と彼はきっと全部違っていたんだろう。 私が、「青空の下で干した布団のような香り」といえば、彼は「埃の匂いだろ?」と返した。 「美味しそうなガーリックの香り」といえば、「ようはニンニクの匂いだろ」と返した。 夢見がちな私に対して、かなり現実主義な彼は、いつも素っ気なかった。それでいて、なにか困っていればすぐに助けてくれるところは頼りがいもあり、不思議な存在だった。 別に付き合っていたわけでもなく、お互いに、他に良い人がいないから近くにいただけ。そんな状態が長く続いて、なんとなくで結婚して今へと至る。 私の目の前には一枚の書類。というか、【離婚届】がある。 妻の欄には私の名前。夫の欄はまだ書かれていない。 これを今日突き付けるつもりだった。 子供もいない私達は、老後もずっと二人っきりで生きていく。若い頃は輝いてみえた彼の冷静なところも、中年を過ぎた今では鬱陶しいだけだ。もはや愛情の欠片もないのだろう。 いや、僅かに残った愛情ゆえの離婚なのだろう。これ以上嫌いになる前に、彼と別れたかった。輝いていた彼の姿を思い出にしておきたかった。 そんな思いでようやく決心した離婚。 ようやく書き上げた離婚届。 だが、それを渡す相手はもういない。 二人っきりの小さな小部屋。木の箱に納められた彼の目は閉じられたまま、二度と開くことはない。特段病気もなかった彼も、飲酒運転で速度違反の車が飛び込んできてはかなわなかったらしく、青信号を渡っていた彼は見事に撥ねられ即死だったという。 死化粧でみられる顔になっているが、かなり悲惨な状態だったときく。 「こんな別れ方じゃなくったって」 呟いた言葉に答える人は誰もおらず、ただ消えていく。ふと彼の左手を見れば、鈍く光る結婚指輪。現実主義なくせに、これだけは「ずっと繋がってるみたいだから」と常に着けていた。 とうの昔に面倒くさくなって着けるのをやめた私とは大違い。 本当に、何もかもが違う私達は、紙切れ一枚で繋がった関係だった。 それも終わらせようと決めた日に、まさかこうなるなんて。 目が痛くなって擦れば、知らないうちに涙が溜まっていた。気付いたら止まらなくなり、ポロポロと溢れ出る。 そっか、私はやっぱり彼が好きだった。 きっと彼も私が好きだった。 役所に出す書類じゃなくて、そのたった一つの共通点が私達の繋がりだった。 最期の最期にそれを改めて認識させた彼は、優しいのか残酷なのか。 「貴方!」 思わず彼を抱き締めれば、身体全体が冷たくて、もう彼は死んだのだと再認識させられる。それでも、僅かに鼻をくすぐる甘い香りは彼が愛用していた煙草の残り香。 きっと、これは私にとって一生忘れられない香りになる。 嫌いになりたくないから彼のいない未来へ進むと決めたこの日、大好きだと再認識した彼のいない未来が確定した今日という日とともに。 そういえば、私が苦手だからと何度言っても煙草はやめてくれなかったな。 改めて違うことがあったと思い返すと、また涙が溢れてきた。

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