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金大中暗殺未遂事件
1971年5月24日、霧雨が降り続く木浦の朝。
金大中は窓辺に立ち、灰色の空を見上げていた。
彼の心にも同じような靄がかかっていた。
大統領選から一ヶ月足らず。
現大統領の朴正煕に97万票差で敗れたとはいえ、彼の独裁体制下で、これだけの支持を集めることができ、金にとっては大きな自信へと繋がった。
「先生、お車の準備ができました」
秘書の声に振り返ると、そこには信頼する側近たちの疲れきった顔があった。
彼らは共に闘い続けてきた。
民主主義を取り戻すという一点の希望を胸に。
「ありがとう。しかし、飛行機が飛ばないとなると予定が狂うな……」
彼は腕時計を見た。
明日は国会議員総選挙。新民党にとって重要な一日になる。
彼はソウルでの応援演説を予定していた。
「光州なら飛べるそうです。車で急げば間に合います」
秘書の言葉に、金は静かに頷いた。
雨に煙る窓の外を見つめながら、彼は朴正煕の顔を思い浮かべた。
大統領選挙中、朴の目に浮かんだ敵意と恐怖を忘れることはできなかった。
「よし、光州の空港から行こう」
車に乗り込みながら、金は何か不吉なものを感じていた。
しかし、それは彼の使命感を揺るがすものではなかった。
彼の闘いは、単なる政治的野心を超えたものであった。
韓国の民主主義のため、そして抑圧された声なき人々のための闘いだった。
雨に濡れた道路は、光を反射して妖しく輝いていた。
金を乗せた車は、木浦から光州へと向かう道を進んでいた。
助手席では秘書が書類を整理している。
後部座席では金が目を閉じ、これからの演説の内容を整理していた。
「民主主義とは何か。それは権力者の恣意的な支配ではなく、人々の意思が尊重される社会だ」
心の中で言葉を反芻する金。
彼の政治的信念は、長い亡命生活と投獄の経験を通じて磨かれたものだった。
朴政権の強権的な手法に対する批判は、彼自身の痛みから生まれていた。
突然、秘書が声を上げた。
「ムォヤ!」
金が目を開けた瞬間、巨大なトラックが正面から突っ込んでくるのが見えた。
運転手がハンドルを切るが、もう遅い。
轟音。衝撃。粉々に砕けるガラス──
世界が一瞬にして暗転した。
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