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「万引きは……なんだろう」
達哉は、古いポスターを見かけた日、その前でひとりごちた。
会社を出たのはすでに11時過ぎ、ガード下の焼き鳥屋台で生を一杯ひっかけたが、残業の内容が尻ぬぐいとあって、達哉の腹の虫は収まらない。
気がつけば、そのままガードを抜けていつもは通らない下町を歩いていた。
あまり街灯がなく暗がりが侵食して、人影も少ない。駅へと向かう道すがら、いつも通る反対側に比べるとあまりにも寂し過ぎる。
よけいに陰鬱な気分になって立ち止まると、路地の影から飴色の光が覗いているのに気づいた。
民家にしては明るいな、と足を向ける。
裏通り沿いに、こじんまりとした昔ながらの店があった。こんな遅くに開いているんだ、と急に興味が湧いて達哉は灯りのもとに近づいていく。
店の前に、白なのか灰色なのか、すっかり色あせたワゴンが出たままになっている。そこに並べられていたものを一目見て、達哉はほお、と思わず声を上げた。
古本だ。ワゴンに出ていたのはほとんど文庫本だった、いくつか馴染みのタイトル、著者名もある。
地味なマジック書きのPOPとも言えない紙が「ワゴン内どれでも百円」と飴色の光に照らされていた。
店内も電気がついている。硝子のはまった引き戸に手をかけると、すらり、と思いがけず軽く戸が開いた。
開けてすぐ、懐かしい匂いが達哉を包んだ。
彼は大きく息を吸う。
古本独特の、ほこりっぽいような紙とインクの匂いだ。
急に学生時代に帰ったようだった。
大学や下宿の周辺には大小さまざまな古本屋が軒を並べていて、達哉もよく足を運んだものだった。ある時は講義に必要な資料を求めて――かつて該当の講義を受けた先輩たちが売ったものが上手く見つかればラッキーだった。教授は毎年、同じ本を指定することが多かったから――または、コミックの最新巻を漁りに、または、大好きだった著者の掘り出し物がないか探しに……
達哉は、懐かしい匂いを全身に浴びるように大きく息を吸い込んで、店内を見渡した。
天井まで届くような書棚が左右の壁に設えられており、ずらりと書物が並んでいる。それぞれの棚の前には、シリーズで束ねられた本がぎっしりと並べられていた。一番戸口の段ボール箱には、古い映画のパンフレットが山になって積み上げられている。
棚のあちこちに、置かれている本の上や脇に、ワゴンの所で見かけたマジック書きらしい簡単な説明文「文庫本・新潮」「値札のないものは百円」などがくっついている。
「すげえな」
思わず、声が漏れる。
昔ながらの古本屋が、会社からほど近い場所にあったという驚きと、こんなに夜遅くまで営業している、という意外さとでしばらくはキョロキョロしていたが、ふと、店の最奥がひっそりと暗がりに沈んでいるのが気になって、数歩中へと足を踏み入れた。
「こんばんは」
通る声で呼びかけたが、誰も出て来ない。そしてまた数歩、中に。
「すみません」
急にぞくりとして、足を止めた。
棚はどこまでも奥に伸びていて、暗がりに消えている。かなり奥まで、本で埋められているようだ。照明が届いているのは達哉が足を踏み入れた、更に数歩先くらいまでだ。そして、奥にはまるっきり人の気配がない。
さりげなさを装い、出口に向かう。と、右側の棚の手前に、昔好きだった推理小説の文庫本があった。
「これ、文庫あったんだ……」
つい、手に取ってまじまじと眺める。ハヤカワ文庫の水色の背に懐かしいタイトルが踊っている。学生当時、夢中になって読んだうちの一冊だった。しかし結末が、思い出せない。
裏表紙には鉛筆で「200」と書かれていた。値段なのだろう。ズボンのポケットから小銭入れを出すが、先ほどの店で端数を出してしまったせいで、百円玉が切れていた。五百円玉ならあるのだが、どうしよう……他に興味の湧きそうな本があるか棚を見渡すが、目が上滑りするばかりだった。
もう一度奥に目をやって、人影がないのを確かめると、達哉は文庫本をさりげなくバッグに押し込んで、店を出た。
本はもちろん面白く、また懐かしかった、そしてページをめくるたびに古本ならではの懐かしい香りがした、だが、あまり堪能できなかったのは忙しさばかりではあるまい。達哉は電車に揺られて思う。
ちゃんと、お代を払わなかったからなのか。
あれから気になって、帰りがけに同じ場所に行ってみた。だが、たいがい店はシャッターが閉まっていた。もちろん前に出ていたワゴンもない。シャッターはさびが浮いていて、うっすらとほこりもたまっている。本当にここが店だったのかも判然としなかった。
今度開いていたら、必ず前回の分も払おう、今度は小銭をちゃんと用意しておこう。
そう心に決めたが、なかなか寄れるタイミングがない。
しかし、ようやく残業が遅くなり、しかも誰かに飲みに誘われることもなく達哉は久しぶりにひとりで駅への道を歩いていた。
飴色の灯りが目に飛びこみ、達哉は思わず小走りに店へと寄っていく。
古びたワゴンには相変わらず古びた本が並べられていた。前回見た時とひとつも変わっていないようだった。
今度はためらわずに引き戸を開ける。また軽々と戸が開いて、すぐにおなじみの香りに包まれた。
奥は相変わらずどんよりと暗く、本棚がどこまでも続いているような錯覚にとらわれた。
今度は、ドアの内側にこれまた古いポスターが貼られているのが目に入った。
『万引きは です』イラストもレトロな泥棒が長い黒い影をひいて店から出てくるものだったが、なぜか『犯罪』と書かれているだろうあたりの文字だけ、まったく読めなかった。きっと赤文字か何か、日光に弱いインクだったのだろう、と達哉はまた店内に目を戻す。
今回はちゃんと代金を払う気で来たのだ。ついでに興味のありそうな本を探そう、と達哉は丁寧に、隅から背表紙に目を通していった。
ハヤカワ文庫だけでなく、他の出版社の同じ形態の本が手書きの札通り整然と並んでいる。昔探し回った新書のシリーズもほぼ全巻揃っていた。
ときめく胸をおさえ、反対側の棚も隅から眺めてから徐々に奥へと進んでいく。左側にはコミックの類が多かったが、奥に行けば行くほど、発刊から年月のたった希少なものが目立ち始めた。古書の香りが強くなる。
背表紙が見づらい明るさになったあたりで、達哉は目を見開いて立ち尽くした。
以前、そう、子どもの頃、喉から手が出るほど欲しかった鉱石図鑑が、ちょうど目の高さにあった。光もないのに、黒い背表紙と載っている鉱石の写真が、煌めいているようだ。
震える手で図鑑を引き出す。
クリスマスに何がほしい? と尋ねられ、すぐにこの図鑑を、と答えて新聞の宣伝を見せた。母は笑ってから、目をまん丸にして、こんな本が4千円以上だって? と大声を上げた。そして、クリスマスの朝、枕元に置かれていたのは毎年恒例のやや大きめの板チョコだけだった。
あの日の哀しさや口惜しさが、黒い表紙を見つめているだけでまざまざと蘇ってくる。
達哉は裏表紙を見た。いったん閉じて、信じられず、もう一度開いた。
『9000』とある。元の定価よりも高い。
物価高の影響なのか、プレミアムがついたせいなのか……達哉は唇をかみしめ、財布を開く。給料前で4千円しか持っていなかった。
本を両手で捧げ持ち、達哉はしばらく佇んでいた、が、顔を上げて奥に目をやってから、黙ってエコバッグを取り出し、図鑑を入れた。
さすがに1万円近いものを万引きしたことには深いふかい罪悪感をおぼえ、達哉はしばらくの間、そのエコバッグすら触れることがなかった。
店にももう寄ることはないだろう、と達哉は電車に揺られて窓の外を見る。
駅近くの踏切にごましお頭の男がぼんやりと立って、通り過ぎる電車を眺めているのと何となく目が合った。初老の男の手に黒マジックがある。
それだけ持って立っていたようで、達哉は何となく気になって、通り過ぎた後もずっと踏切の方に目をやっていた。
しばらく経って、同じ課の先輩と帰りがけに居酒屋に寄った折、ふと色々な飲み屋の話から、会社近隣の店の話になった。
若い頃、本屋によく行ってさ……と話す先輩に、達哉が何気なく「駅の北側、路地の中の古本屋、知ってます?」
「ブックオフ? あれは南だけど、北だったらもっと離れてる……隣町だし」
「いやいや」達哉は笑って答える。
「昔ながらって感じの、古本屋なんですけど」
「えっ、知らねえなあ」
彼も、本屋だけではなく古本屋にもよく行っていたらしい。
「南側に二軒あったけど、個人経営の。でも潰れちゃったし。一軒はもう歳だから、って……でももう5年以上前の話だよ。まだその頃はオマエも入社前だしね」
しばらく取り留めのない話になってから、あっ、と先輩が声を上げた。
「黒輪書店、かなあ?」
「クロワ?」
噂だけどさ、と先輩はうれしそうに頷いてから、急に声を潜めた。
「駅北に、オヤジがひとりでやってた古本屋があったって話……でもさ」
顔を寄せるので、つい、達哉も顔を近づける。「何ですか?」
「万引きがさ」その言葉に胸を刺されたように、達哉は激しくのけぞった。
「えっ?」
「いやいや、何びっくりしてんの」
「万引きが、何ですか?」
動悸が激しい、しかし、続きが気になる。
「子どもがさ、万引きしてて、オヤジが捕まえようとして追っかけて、そんで、子どもは降りかかった遮断機をくぐって線路の向こうに逃げちまった、でもカッとなったオヤジは、そのまんま踏切に飛び込んで、やってきた急行に……即死だったって」
「で、でも」達哉はなかなか声が出ない。
「でも子どもの万引き、ってどうやって分かったんですかね?」
「オヤジがマジック一本持って、叫びながら走ってたんだって、万引きだ、ソイツまた来やがった、捕まえてくれ、って」
ぞくりと背筋が凍る。しかしつい訊いてしまう。
「なぜ、マジックを」
「値札とか作ってたんじゃねえ? それか宣伝。POPって言うんだっけ?」
先輩は乾いた笑いでビールのジョッキを傾けて空にした。
「それで、閉店したんだって。どこなのか俺は知らねえんだけど、駅の近くだったって話は聞いたことある。でも十年以上前の話だったとおもうよ。もう更地になってパーキングとかになってんじゃね?」
「ですかね……」
「えっ、駅北に古本屋見つけたの? どこ?」
「いや、違ったかも……ああ、勘違いです、家近くの駅だったかな」
達哉は何とか笑顔で答え、半分以上残っていた中ジョッキを一気に飲み干した。
その晩は絶対に寄ろう、と決めて、残業もそこそこに切り上げて退社し、すぐに近くのガストに入った。夕飯に軽めのサンドイッチをつまみながら、朝から何度も確かめた茶封筒を取り出す。
中には千円札が九枚と百円玉が二枚。今度こそ、店内に入れたらお代を払うのだ、かたく誓ってから、いや、いったいどこに代金を置けばいいのだろう、としばし目線が宙を彷徨った。
入口近くにはレジらしきものはなかった。ということは、レジは店の奥なのか、店主に直接渡すのか、そんな感じなのだろう。
しかし店の奥は見通しがきかないし、人の気配を感じたことがない。
とにかく行ってみないことには、いざという時には本棚の片隅に茶封筒ごとおいて行くしかない、しかし盗まれないだろうか……そこまで思って達哉は苦い笑みを浮かべた。
万引きした人間が、置き引きを心配するのがどうにも可笑し過ぎる。
何杯目かのコーヒーを飲み干してから、達哉は覚悟を決めて、立ち上がった。
店は開いていた。予想していたとは言え、飴色の灯りが目に飛び込んだとたん、大きく安どのため息が出た。達哉はごくりと唾をのんで、引き戸を開けた。
懐かしい匂いに包まれ、達哉は一歩中に踏み込む。
今日は、何も買うつもりはない。ただ、前回までの代金九千二百円を払って出ていくだけだ。
「こんばんは」
最初の時のように声に出す。奥まったあたりはやはり人の気配がなく、どんよりと闇に包まれていた。
しかし今日はためらわず、進もうと決めていた。達哉はずんずんと中に入っていく。
「すみません、前回と、その前に、うっかりお代を払わずに……で、今日やっとご用意できたのでお持ちしまして」
返事はない。それどころか、しわぶきひとつ、いや、ささやかな息遣いさえ。
薄暗がりの領域を超え、達哉はすでに自身の伸ばす手先すら見えない場所にいた。
古本の香がさらに強く、甘く絡みつく。
達哉は用意していたペンライトをつけた。わずかな白い円の中、本棚にはずらりと珍し気な本が並んでいた。すでに背文字すら消えかかっている。
丸い小さな灯りが一瞬とらえたものに、達哉はもう一度灯りを向けた。
棚の前に、表紙を上に置かれている。丁寧に、透明のフィルムで包まれて厳重に封印されていた。茶色い合皮らしい革に押された金色の装飾枠。真ん中には流麗な文字で、『Diary』とあった。
見覚えがあった。あり過ぎた。
古びた香りの中で心は瞬時にその頃に飛ぶ。
高校時代、付き合っていた彼女の部屋でよく見かけたのだ。ノックして入ると、彼女はどうぞ、と言って机の上に広げていたそれをとざして、こちらを向いてにっこりと笑った。
日記を閉ざした時の笑みはよりいっそう、明るかった。
なに書いてんの? と伸ばした手をやんわりと振り払い、いやだぁ、たっちゃん、個人情報だからね! とよく言われたものだ。
二年半、いっしょに出かけていっしょに笑い、ともに語り合った、しかし、少しずつ離れていくものを感じ、結局、卒業とともに別れたのだった。振ったのは彼女の方だった。
ついには日記を見せてもらうことはなかった。
大学三年の冬、彼女がひとり、命を絶ったのを人づてに知った。
その日記が、今目の前にある。
本当に、愛していたのだろうか、愛されていたのだろうか、本当は彼女は何を欲して、何を夢見ていたのか。ずっと、ずっと知りたかった。知って、より近づきたかったのだ。
達哉は、震える手で包みを持ち上げた。裏返して、小さな値札を見た。
『百万円 無断開封厳禁』
開封してから、入口近くの明るい場所にその日記を運び出し、達哉はふと床を見た。
中太の黒マジックが一本、落ちていた。
踏切にいたオヤジが持っていたやつと同じだ、達哉はのろのろとマジックを拾い上げ、店の奥に目を移した。
あれほどまでに気配のなかった店の奥、暗がりの中にはたくさんの人影があった。
そして、たくさんの視線が。
――そうか、三度目はもう。
達哉は日記を拡げることなく棚の前の台に戻し、拾ったマジックの蓋を開ける。つん、と甘いインクの匂いが鼻に届き、達哉はうすく微笑む。
――この匂いにも、何かと思い出があるかもな。
達哉はマジックを持って、入口近くのガラス戸に寄った。
あのポスターは、相変わらず文字が抜けていた。
達哉はそこに、たどたどしい文字を描き込んだ。それから、ふう、と息をついて黒い影たちの見守る店の奥へと向かっていった。
次の店番となるために。

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