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私は雨の日が好きだ。
とても静かで、とくに雨宿りの湿った空間は誰にも邪魔されず、自由に物思いにふけったりできる。
整理されず、無造作に本棚に仕舞われたような記憶。
まるで古い背表紙をなぞっては取り出し、そっとページを開くようにそれを辿ると、不意に胸の真ん中を摘ままれるような懐かしさが込み上げてくる。
甘酸っぱい汗と、薄っすら煙いタバコの匂い。
頭からすっぽり被せられた黒い学ランが、湿っていく。
まるい詰襟からのぞく景色は、初夏に色付き始めた紫陽花の歩道が霧雨に霞んでいた。
そう。あの日はいつもと違う帰り道だった。
濡れた前髪をかき上げ、斜め上で少しはにかむ横顔。心無い出来事に傷付いた私が、その時一番ほしい言葉をくれた。
あの日、ぶっきらぼうな優しさに包まれて私は救われた。
あれから10年の月日が流れ、高校時代のたくさんの思い出は卒業と同時に、移り行く時間と日常へと形を変えていった。
けれどもただ一つ。何年経っても忘れられないことがある。
雨が降ると、きまって心の片隅にずっとある淡い記憶が蘇ってくる。
◇◇◇
6月に入ったばかりの夕方の空を、頬杖えを付いて会社のデスク横の窓から眺めていた。
都会の高層ビルの20階。大きなガラス張りの窓が濡れている。
どんよりと灰色に拡がる雲からデスクへ目を転じると、私は開いていた記憶のページを閉じ、現実に戻る。
パソコンの画面に並んだ数字の羅列、終業時間は過ぎているのに、ひっきりなしに送られてくる急ぎのメールとファックス。
パソコンの縁には、貼りっぱなしの付箋。完了したタスクを確認しながら、剥がして丸めて足元のくずかごに入れる。
ふと電話横に立て掛けてある鏡を見た。
そういや、朝から一度もメイク直してなかったな。目の下に点々とこびり付いたマスカラを、指先で消していると、鞄を肩にかけながら同僚が声をかけてきた。
「小宮さん、お疲れ様。雨、まだ止まないね」
「お疲れー。まだ当分止みそうにないね」
「小宮さんはまだ残業? ご飯は?」
「あ、うん。雨宿りがてら、もうちょっとね」
私は、引き出しにいつも常備してある菓子パンの袋を持ち上げて見せる。同僚は申し訳なさそうに顔の前で拝むと、ごめん、お先にと事務所を後にした。
メロンパンをかじりながら、黙々と慣れた手付きでメールの返信をこなし、届いたファックス用紙を捲りながら、ぬるくなったペットボトルのお茶を飲む。
窓の外は、湿ったビルのあかりが夕闇に灯り始めている。なんだか訳もなくさみしくなってきた。
今の仕事は好きだけど。このまま私は結婚もせず、仕事だけの人生で終わっちゃうのかな。
夕飯もゆっくり食べれないほど忙しない毎日。
いつも何か大事なことを、一つ一つ忘れていくような気がした。仕事のスキルが上がれば上がるほど、雨雲にぼんやり滲んで消えていく虹みたいに。
デスクに置いていたスマートフォンが唸った。パーテーション越しに残業に終われる同僚達が、振動する音の行方を探している。
今日も何時に帰れるんだろう?私は腕時計に目をやると、ため息をついて画面をタップした。
「はい。藤和出版、小宮です」
「菜緒ちゃん? 菜緒ちゃんだよね?」
控えめな感じだけど、なんとなく耳に慣れた可愛らしい声。
この声は・・
「え? あ、はい。ひょっとして、愛里?」
「そう! 私! あー良かったぁ。違う人が出たら切っちゃおうかと思った」
数年ぶりとは思えない距離感に、一気に懐かしさが込み上げた。
「えー! 久しぶり。どうしたの? よくスマホの番号わかったね」
「そうでしょぉ? 電話番号ゲットするのは高校時代からの特技だもんね。と言っても、菜緒ちゃんのお母さんに教えてもらったんだけど。久しぶりだね。元気にしてた?」
確かに愛里は昔からそうだった。
クラスの友達の恋愛相談を受けると、愛らしい小柄な体形とぷっくりした涙腺を武器に、相談者の意中の男子のスマートフォンの番号を、男友達の男友達、さらにその男友達のつてを辿り、何故か簡単にゲットしてしまうのだった。
「元気にしてるよ。毎日、会社と家の往復ばっかだけど」
「出版社って忙しそうだよねー。彼氏はいないの?」
「いない、いない。彼氏つくる暇もないよ。それで、今日はどうしたの? まさか結婚の報告とか?」
えーっない!、ない!と、愛里は大きく吹き出すと続ける。
「私と一緒に係やってた中津覚えてる? ひょろっとしてて、眼鏡かけたちょっととぼけた顔のさ・・」
そのとぼけた顔を思い出し、今度は私が吹き出してしまった。
中津は学園祭で愛里に無理矢理メイクをされ、とんでもない女装姿で教室の前で客引きをさせられていた。
彼は愛里に片思いしていて、彼女に振り向いてもらおうと必死だった。
ふとパーテーション越しの同僚達の冷ややかな視線が刺さり、私は小さく咳払いすると、メモを取るフリをしてトーンを下げた。
「あ、うん。覚えてるよ」
「たまたま私の取引先の担当だったのよ。びっくりしちゃった。そのまま飲みに行ったら、思い出話に花が咲いてさー。ほら、みんなに人気だったパンとかさ、あれ何だった?」
食堂でいつも買いそびれたあげパン。
こっそりノートの切れ端に書き合った、推しの妄想話。
放課後、オレンジ色に染まる校庭。
愛里は高校時代のキーワードを並べては、懐かしそうに思い出の点と点を繋いで、あの頃と同じ青い風の中を軽やかに駆けていく。
私もそれを、穏やかな気持ちで眺めているつもりだった。
けれど、6月になると通学路に咲く紫陽花が綺麗だったと言われた時、胸の奥に鈍い痛みが走った。
何年たっても、ずっと消えることのない切ない感覚。
何故か数秒沈黙すると、愛里は放った。
「ねぇ、久住くんと会った?」
わかってはいたけど、そのキーワードだけは言わないでほしかった。今もその名前は、私の時間を止めてしまう力がある。
平常心を声に込めた。
「ううん。あの日以来、会ってないよ」
「そうだよね。急にいなくなっちゃったもんね」
「うん。あのあと家にも行ってみたけど、引っ越ししちゃってたし」
「卒業してから連絡は来なかったの?」
「ない。何処で何してるのかも全然知らない」
やっぱりねと、愛里は困ったようにため息を漏らし、僅かな逡巡のあと続ける。
「中津がね、出張先の空港で久住くんと会ったらしいの」
「え・・うそでしょ」
動揺で声が上擦ってしまった。もう平常心は無理だった。
あの日の記憶が、感覚をともなって蘇ってくる。
西陽に焼けた床と古びた埃のにおい。
雨が降ると薄暗くなる学校の図書室。
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