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電車が揺れるたび、シクシクと胃が痛んだ。
幾度となく、途中下車して逃げてしまいたい気持ちに駆られたが、出がけに振り向いたときの諸悪の根源の笑顔を思い出し、踏みとどまる。
長年の経験でわかっている。あれは、「覚悟決めろ」という顔だ。固定電話の子機を振っていたのは、緊急連絡先として、自宅の電話番号が相手方に渡っていることを意味する。
だから、無断で欠勤したりしたら、即バレる。元ヤン女に、にっこり笑顔でさっくり刺される可能性すらある。智は嫌な想像に身震いして、なんとか耐えた。
(逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ……)
根強い人気のアニメの主人公と同じセリフを唱え、今日から働くことになったバイト先の最寄り駅にたどり着く。ホームへ一歩踏み出したところで、足下が急におぼつかなくなって、転びかけた。
何するんだよ、という顔で振り向くが、続いて降りてくる人間はいなかった。
ラッシュの時間はとうに終わっている。押し出されるはずもなく、ただ自分がドジなだけ。
車内の人の目が突き刺さるように感じて、智は慌てて姿勢を正し、ただでさえ長い前髪を伸ばして伸ばして、自分の顔を隠した。耳は赤くなっているに違いない。
駅から目的の場所までは、徒歩十分。わからなければ電話してね、とフレンドリーな社長が言っていた。零細企業なので、直属の上司が社長になるのだった。
裏通りにある雑居ビルは、面接のときに一度訪れただけだった。
もっとも、あれが面接だったのかは、はなはだ怪しい。
智は先週のことを思い出す。
そもそも、バイト先を見つけてきたのは、同居している兄嫁だった。
長距離トラックのドライバーである兄の優は、家を空けることが多い。娘が生まれた途端、急に心配性になった彼は、実家に家族を連れて帰ってきた。
もともと兄嫁の未来も、近所に住んでいた幼なじみで、家族ぐるみの付き合いだった。
ちょっとやんちゃをしていた彼女は、昔から面倒見がよく、年の離れた智のことも嫌がらず、遊んでくれていた。
いつから兄と付き合っていたのかも、智にはわからない。気づいたら、「妊娠した」とあっけらかんに報告され、あれよあれよという間にふたりは結婚していたし、何の相談もないままに、兄一家が同居していた。
なんで言ってくれなかったんだよ、と文句を言う資格すら、智にはない。
なにせ、稼ぎもない引きこもりだ。家計に金など入れたことがない、クズであることは自覚している。
四月に兄一家が越してきて、半年。未来の堪忍袋の緒が切れるタイミングは、まるでわからなかった。
『いい加減、出てけ!』
ノックもなしに入ってきて、怒声を浴びせると同時に顔面に飛んできたのは、履歴書とバイト情報が載ったフリーペーパーだった。
曰く、「あんたみたいなゴクツブシ、娘の教育に悪い!」だの、散々な言いようだった。智は一切反論せず、ただ静かに息を殺していた。一時の激情をやり過ごせば、どうにだってなる。
彼女が何を言おうとも、この家を取り仕切っているのは智の両親だ。中学・高校と次男がいじめられたのは、そういう風に生んでしまった自分たちの責任でもあると、思っている。
だから二十歳になっても引きこもりニートを続けている息子のことも、おとなしく暮らしている限り、追い出したりしない……。
と、高をくくっていた。
しかし兄不在の状態での家族会議で、智はつるし上げを食らった。
『SubだろうがDomだろうが、関係ない! いじめられるときはいじめられるし、それはもちろん、いじめた側が悪いに決まってる。でも、その後の人生放り出してんのは、あんた自身の責任だ』
思えば、子どもの頃から曲がったことの嫌いな女だった。幼い頃は年相応にやんちゃだった智も、何度も制裁の拳固を食らった。
母が取りなそうとすれば、正論をぶちかまして一刀両断をする。義理の親であっても、クズに餌を与え続けているのは、未来にとっては悪であり、許せることではなかった。
『三ヶ月。いい? 三ヶ月以内に、独立するめどを立てなさい。準備できてなくても、追い出すからね!』
すでに九月に入っている。三ヶ月ということは、年内には追い出すと宣告をされたに等しい。
さすがに慌てた。下手をすると、寒空の中、ホームレス生活をスタートするはめになる。
『でも、職歴のないSubなんて、どこも雇ってくれないよ……』
ギリギリの成績と出席日数で高校を卒業したあとは、大学や専門学校にも行かなかった。就職も気が進まず、まだ現役の両親は、何も言わずに家に置いてくれた。ただ住まわせてくれているだけだが、傍から見れば、甘やかされているのだろう。
何もしたくないと思っていたら、何もできなくなっていた。
愛想もなく、要領も悪い。いじめの経験から、他人の目がトラウマになっているので、接客なんてもってのほか。
厳しい兄嫁は、しかし、決して情のない女ではない。内心ではとっとと追い出したいと思っていても、着の身着のまま、智を放り出すことはしなかった。
『大丈夫。もう面接の予定は取ってあるから』
Subのあんたが求められている仕事をね。
用意周到な彼女の計画に、智は泣く泣く従うほかなかった。
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