立候補してもいいですか?

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立候補してもいいですか?

 家の扉を閉めながら、誰もいない部屋に向かって「いってきまーす」と声をかける。習慣として身に付いてしまったせいで、今でもこの癖は抜けない。  大学を卒業するまでは実家に住んでいた。栃木の自然あふれる……と言ったら聞こえはいいが、実際は畑と虫だらけの田舎町。もちろん一軒家。  母親は専業主婦だったからほとんど家にいたし、祖母も祖父も優しくて、出掛けるときに「行ってきます」と言うと必ず返事があった。  東京に来たのは、大手企業の子会社に就職するため。給料もそこそこいいし福利厚生も手厚い。栃木でそんな条件のいい会社を見つけるのは困難だった。 「ちょっと、日野さん」  後ろから年配の女性に呼び止められ、軽く振り返る。隣に住んでいるこのおばさんは大家ではないが、何かと口を出してきてうるさい。  朝の忙しい出勤前に捕まったら遅刻は免れない。それを避けるために「おはようございます」と頭を下げてから歩き出そうとしたら、また呼び止められた。 「あのね、昨日の夜ゴミ捨てたでしょ! ここのネットは役に立たなくてカラスが来るんだから、朝捨ててちょうだいって!何回も──」 「あっ、すみません。そうでしたね、明日から気をつけます。それじゃあ仕事があるので」 「ちょっと! 全くもう~」 「行ってきます!」  おばさんは怒った様子で家の中に戻った。挨拶くらい、返してくれたらいいのに。  東京に来てから二年──、都会の人は冷たいとよく聞いていたけど、まさかそれを痛感することになるとは思ってもみなかった。財布を落としても拾ってもらえないし、満員電車では靴だの膝だの色んなところを蹴られるし、笑顔で挨拶しても無視されることがある。  田舎は、良い意味でも悪い意味でも人との距離が近かったように思う。  何かあれば翌朝には噂が広まっているが、他人でも家族のように心配される。隠し事などできない。だからそれが鬱陶しく感じるときもあれば、ありがたく感じるときもある。  困ったときに助けてもらえるのは当たり前だったし、それが普通だと思って生きてきた。  ここでの生活は、まだまだ慣れそうにない。  「お……っと」  ちょうど隣の部屋を通ろうとした瞬間に扉が開いた。ギリギリで足を止めたおかげでぶつからずに済んだが、中から出てきた人物との距離が、日常ではあり得ないほど近くなってしまった。 「あ、おはようございます」  至近距離で目が合う。まるで俺がこの瞬間を狙っていたようだと、恥ずかしくなりながら目を逸らすも、相手は無表情のまま扉を閉めた。  こんなに近い距離だったのに、悲しいことに何も言われず、「……っす」と軽い会釈だけが返ってくる。  この無愛想な男、黒瀬という隣人は、俺がここに越して来る前から住んでいる。  ──忘れもしない。緊張しながら引っ越しの挨拶に行ったときのことを。 「は、はじめまして。今日引っ越してきた日野諒太です。よろしくお願いします。あっこれ、つまらないものですが、良ければ召し上がってください」  それはもう、丁寧すぎるほど丁寧な挨拶をした。だってばあちゃんが言ってたんだ。──引っ越しをしたら必ず挨拶しなさい。困ったときに助けてもらえるようにね。あと茶菓子も持っていくんだよ──と。  田舎では越してきたら挨拶するのが当たり前だったし、それをしなければ冷たい目で見られることもある。田舎に住む上での常識だった。  そして肝心の黒瀬さんはというと、これまた表情一つ変えずに言った。 「……どうも」 「へ?」  自己紹介すらされなかった。というか長文の挨拶に対して返事は一言だけということに衝撃を受けた俺は、その場で立ち尽くした。  着いて早々、都会の洗礼を受けた気がした。田舎でこれはあり得ない。いくら態度が悪いとしても、よろしくねくらいの返事はされる。  とまあ出会いこそ酷い印象だったものの、過ごして行くうちに彼への好感度も変化してきた。  例えば、配送ミスで黒瀬さんの家に届けられた荷物をわざわざ俺が帰宅してから持ってきてくれたり、変な宗教の勧誘に何時間も捕まってしまったときは助けてくれたり、エレベーターで乗り合わせたら開けるボタンを押して、「先にどうぞ」と降りる順番を譲ってくれる。  彼には、さり気ない優しさと心遣いが溢れている。引っ越しの挨拶に関係なく、助け合いの精神はあるということだ。 「髪、切ったんですね」  後ろから話しかけられたことに驚いたのか、彼は普段の気怠げな目を大きく開いてこちらを見た。 「え? ああ……、まあ」  エレベーターの中で話しかけるんじゃなかった。数秒前の自分に後悔しつつ、すぐ目の前にある男の顔を見つめる。  なにより、この整った顔。田舎じゃこんなイケメンはいなかったし、いても野球とかサッカーが上手い短髪のスポーツイケメンしか見たことがない。  目鼻立ちがはっきりしていてバランスも整っているが、退屈でたまらないと言いたげな目元や長めの前髪によって、俳優のような影のある雰囲気が漂っている。まさに都会の男。ただのスーツ姿でも様になって見える。  こんなに格好いい人が、無愛想でも本当は優しい性格なのだと知ってしまったら、そりゃあ惹かれるだろう。ただでさえ栃木で俺の好みのイケメンは見つけられなかったのだから。 「……どうぞ」  今日もまた、開けるボタンを押して俺が降りるのを待ってくれた。  やってることは優しいのに、言い方はぶっきらぼうというアンバランスさが面白い。 「似合ってて好きです」 「は?」 「あ、そ、その……髪が」  危ない。うっかり告白してしまうところだった。羞恥心に頬を染めつつ、エントランスを出る。  無視されると思った。なのに彼は何事もなかったかのように、「ありがとうございます」と頭を軽く下げてから颯爽と歩いて行った。  その後ろ姿に、心の中で行ってらっしゃいと声をかける。駅まで一緒に歩いて行けたらいいのに。  入社して二年も経てば、ある程度は会社に馴染んでくる。  最初は出勤したらなにをすればいいのかすら分からず、常に緊張して上司に迷惑ばかりかけていた。それが今では、始業前に同僚と雑談する余裕さえある。 「なんか今日いいことあった? 嬉しそうじゃん」  真後ろのデスクにいる前橋高也が顔を覗き込んできた。いきなり目の前に栄養ドリンクを差し出され、咄嗟に受け取る。こいつも同期の一人だ。 「くれんの?」 「えーどうしよっかな」 「なんだよ」 「昨日めちゃくちゃ疲れた顔してたから心配してたのに、今日来たら幸せそうな顔してんだもん」 「あー……まじ?」  昨日は確かに疲れていた。来月で退職する上司が受け持っていた大手取引き先の担当を引き継ぐことになり、朝からその準備と同行訪問に追われ、昼食を取る暇もなくそのまま他の客先訪問をして、帰社したら本社の人とミーティング。そのあとに溜まっていた事務処理をして、結局九時頃まで帰れなかった。  しかも厄介なことに、引き継いだ取引き先の担当者がかなり気難しい人だった。上司はなんとか上手く対応していたようだが、俺にそんな技術はない。  枯れかけの状態からここまで復活できた理由はきっと……黒瀬さんに会えたからだ。 「前橋って優しいよなあ。助かる」  体調を気にしてくれる同期が近くにいるのはありがたい。前橋は以前から、何かあるたびにこうやって助けようとしてくれる。よく二人で飲みに行って愚痴を聞き合う仲だし、東京に来て初めて出来た友達でもある。 「おいおい、それもらったんだから言えよ。なんか良いことあった?」 「いや大したことではない。全く」 「気になるじゃん、言えってば」 「だから別に大したことじゃないって。ただ……前から気になってた人と話せただけ」 「大したことあるじゃねえか! えなに、お前彼女いなかったの」 「いないけど」 「へえ意外、モテそうなのに。あれだ、理想めちゃくちゃ高いんだろ」  理想が高いというよりも、恋愛対象が男だからなんだけど。とはさすがに言えず、適当に誤魔化しておく。まだカミングアウトする勇気はない。 「あとモテないし」 「嘘つくなよ。嫌味か?」 「はあ? 何言ってんだよ。前橋こそモテるくせに」  俺より十センチは高いであろう高身長に、バスケが得意そうな体格の良さと綺麗につけられた筋肉。顔は黒瀬さんほどではないが、アイドルっぽい華やかさがあるように見える。合コンに参加したら真っ先に狙われるタイプ。こういう前橋みたいな男は、女性とゲイのどちらにも人気がある。 「日野に言われると嫌味に聞こえるな」  学生の頃からずっと同性にしか興味がなく、女性に関わる機会が極端に少なかった。合コンにも参加しないし、関わらないから告白も滅多にされない。が、友達に「日野はモテるだろ」と何度も言われてきたせいで、きっと自分はそこそこ女性ウケがいい容姿なのだという自覚はしている。  身長は平均値で体型も普通、顔がやや中性的なせいで綺麗だと言われることが多く、男性的な部分の少なさでモテると判断されるのだと思う。  でも、そんなの俺にとってはなんの意味もない。ゲイの中ではやっぱり前橋みたいに高身長で筋肉がしっかりある体型が人気だし、俺みたいな中性的な顔よりスポーツイケメンのほうがモテる。 「まじでモテないんだよ、これが……」  上京してすぐにゲイ向けのマッチングアプリに登録した。いいねは、それなりにつけてもらえる。  好みじゃない顔や体型、明らかなマルチ勧誘、恋愛対象外の年齢の人達から。  普通にいいなと思った人がいても、遊び目的だったりメッセージが続かなかった。  要は、俺は自分好みのタイプには好かれない体質ということだ。学生時代に好きになった人にはもれなく彼女がいたし、今まで誰かと両思いになれた試しがない。 「意外と大変なんだな、お前も」 「そうなんだよ」 「でも俺はいいと思うけど? 日野って優しいし責任感も強いし、あと男にしては綺麗だし」 (だからそれが邪魔してるんだって言ってんだよ。このノンケめ) 「……ありがとう。褒められておくわ」 「なんか奢れよ」 「はいはい」  このまま恋人ができなかったらどうしよう、という漠然とした不安はずっと抱えている。でも、せっかく上京したのだから、隣に住むイケメンともっと仲良くなりたい。  退職する予定の上司から、今日も引き継ぎのための書類を山ほど渡された。パソコンのデータで管理してほしいものだが、うちの会社は上層部の年齢が高いせいで、まだまだ目を疑うほどアナログな部分が残されている。この非効率なやり方を見て、誰が親会社が大手だと想像するだろうか。  ふぅ……と深い溜め息をついた俺は、目頭に指を当てて項垂れた。 「おつ~今日も残業長そう?」  顔を上げると、前橋が爽やかな笑顔で立っていた。リュックを背負っている。上司はもちろん、他の人達もほとんど帰ってしまった。どうやら今日も俺だけここに取り残されるようだ。 「まだ終わんないんだよ……疲れた」 「飲み行きたかったのになあ。いつ空いてる?」 「えー、いやでも最近忙しいからな」  平日が忙しいせいで、せっかくの休みは寝るだけで一日が終わる。本当はリフレッシュするために外に出かけたいのに。 「つれないこと言うなって! 引き継ぎ終わったら行こう。それか宅飲みでもいいし」 「ああ、おっけ。落ち着いたら家呼ぶ」 「いいねえ。じゃ、頑張れよ」 「うーん」  大きな手にわしゃわしゃと髪をかき乱される。前髪の隙間から、同じ仕事終わりとは到底思えない輝かしい笑顔が見えた。  目で追っていると、背筋をピンと伸ばして階段のほうへ向かって行くのが見えて驚愕する。あいつも残業したのに……まさかエレベーターを使わずに帰るとは思わなかった。体力が化け物並みで恐ろしい。  前橋はいい奴だ。気が利くし人懐っこいし、困っていたらすぐ助けてくれる情に厚い男。それでいて容姿もいい。  上京する前の俺なら絶対にあいつのことを好きになっていたはず。けど、入社してから一度もそういう目で見たことがない。俺の恋愛を阻んでいる明確な存在と言えば、思い当たるのは一人だけ。 「黒瀬さん……」  悩ましい声が、溜め息と共にパソコンの画面にぶつかる。  よく残業をしているのか、帰るのが俺よりも遅いときがある。別に盗み聞きしているわけではなく、隣の部屋との壁が薄いせいで、ある程度の生活音が聞こえてきてしまうのだ。 「さすがにもう帰ってるか」  夜の八時半。会社から駅まで歩いて五分、電車に乗って最寄りの駅まで二十分弱。家に着く頃には九時を過ぎる。  今日はここまでにしたほうが良さそうだ。明日に影響があったら困る。毎日こんな時間に帰っていたら、全ての気力が根こそぎ取られてしまう。  デスクを簡単に整理したあと、重い足取りで会社を出た。  弁当と缶ビールが入ったコンビニの袋を片手に、家までの帰路を歩く。  ここ最近はほとんど毎日こんな食生活だ。朝は適当に菓子パンを食べて、昼はカップ麺、夜はコンビニ弁当。上京してすぐの頃はきちんと自炊していたのに、残業が続いているせいでその気力すら湧かない。  早く家に帰って寝たい。本当は昨日から配信が始まった海外ドラマの新作を観たいところだが、飯を食ってシャワーを浴びたらすぐ睡魔に襲われてしまうだろう。  癒しがほしい。黒瀬さんに会いたい。わがままを言ってみて、あの無愛想な彼がどんな反応をするのか見てみたい。 「……っていやいや、キモいな」  恋人でもないのにそんな妄想をするなんて、自分自身に鳥肌が立つ。それにもうこんな時間だから、今日はもう会えないはず──。 「こんばんは」 「く、黒瀬さん?」  たった今考えていた人が後ろからぬっと現れ、思わず飛び跳ねた。 (ちょっと待て、今この人、こんばんはって言った?)  今まで挨拶をするのは俺からだった。向こうからこんな風にしてもらえたのは初めてだ。  あまりの衝撃に俺が体を硬直させていると、黒瀬さんが突然ふっと笑った。 「なんすかその顔」 「わ、笑った……黒瀬さんが笑った……?」  笑った顔を見るのも初めてだった。いつも不機嫌なのかと思うほど怠そうにむすっとしているが、想像よりもずっと笑顔は可愛かった。といっても、歯を見せるような大笑いではなく、ただの微笑みだったけど。 「なに言ってるんですか」  ああ、残念。また面倒くさそうな態度に戻ってしまった。  よく見たら、彼の左手にもビニール袋が握られている。俺と同じで晩飯を買ったのかもしれない。  そそくさと歩き始めてしまった黒瀬さんのあとを追い、隣に並んで歩く。 「黒瀬さんも残業?」 「そっすけど」 「へへ、じゃあお揃いだ」 「……遅いっすね。帰るの」 「いや、それを言うなら黒瀬さんもでしょ」 「まあたしかに」 「なんの仕事してるんですか?」 「俺はSEですけど」 「エスイー……システムエンジニア!? めっちゃ頭いいやつだそれ。かっこいいな」 「……日野さんは?」 「俺はただの営業ですよ。技術職なんて自分にはできないから、すごい憧れる」 「別にそんな大したことないっす」  不思議な感覚だ。いつもは挨拶くらいしかしないのに、こうやって普通に話せているだなんて。  口数は確かに少ないが、意外にも俺が話したことには反応してくれるし、何かしら返してくれる。つまらない話だと無視されるかと思ったのに。  もうすぐ、エレベーターが目的の階に着いてしまう。──もっと仲良くなりたい。黒瀬さんのことを知りたい。どうすればいいんだろう。 「あの」 「はい? ってか、降りないんすか」 「あ、ああすみません」  ついに部屋の前まで来てしまった。でも、このまま終わるわけにはいかない。 「じゃあ……」 「あの、黒瀬さんって、同性愛者のこと嫌いですか?」 「はっ? なんすかいきなり」 「俺はゲイ……なんですけど、嫌いですか」 「別に、好きでも嫌いでもないです」  同性愛者に嫌悪感がないということは、もし黒瀬さんがノンケだとしてもチャンスはある。せっかく上京したんだから、少しは挑戦してみるべきだ。 「付き合ってる人はいます?」 「……いないっすけど」 「じゃあ、立候補してもいいですか」 「え?」  彼の目がぱっと大きく開かれた。口も半開きのまま、“何を言ってるんだこいつ”と言わんばかりに唖然と見つめられる。 「黒瀬さんが嫌な気持ちになるなら、やめます」 「えー……いや、嫌ってか……」  迷うこと自体が面倒で苦手そうな黒瀬さんが、顎に手を添えて考え込んでいる。あまりに真剣な表情をするものだから、困らせてしまったのかもしれないと思った。 「そんな重く考えなくていいですよ。候補に入れてもらえたら嬉しいなって思っただけなので」 「はあ。別にそれはいいですけど」 「……まじで?」 「でも俺、今まで男を好きになったことなくて……ってか恋愛に興味なかったから」 「ぜんっ、全然いいよ! それでも!」  きっぱり断られると思っていただけに、予想外の答えをもらえてつい敬語を忘れてしまった。慌てて「すみませんタメ口で」と謝ると、なにが面白かったのか、また彼は口元を緩めた。 「タメ口にする?」  滅多に見られない微笑みから出てきた、砕けた言葉。廊下の天井の淡い光に照らされているだけなのに、どうしてこんなにも輝いて見えるのだろう。 「する……っ」  腰の力が抜けそうになって扉にしがみつく。  俺の情けない姿を見た黒瀬さんが、今度は声を出して笑った。

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