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「げぇ、マジかよ」
思わず独り言ちるぐらいには最悪の出来事だった。部活を終えて帰宅途中の大揮は、学校を出てしばらくしたところで土砂降りの雨に打たれた。今日は丸一日三十五度を超えるド晴天の猛暑日で、雨の予報なんて一切なかったはずだ。だから勿論傘など持っていないし、生憎折り畳み傘を常備するようなマメさは持ち合わせていない。
こうして考えている間にも大粒の雨が大揮に降り注ぐ。おそらくゲリラ豪雨の類だろう。どこかで雨宿りをしたいが、通学路の途中に唯一存在する駄菓子屋は残念なことにもう少し先にある。
仕方がないからそこまで走ろうか。そう決めて勢いよく走り出したところで、右手に屋根付きのバス停が見えてきた。バス通学じゃない大揮がいつもなら素通りするはずのこじんまりとしたバス停だ。駄菓子屋を目指していたはずの大揮の足は、何の躊躇いもなくそこに向かっていった。
「っあー、クソ! なんで勝てねえのもう! NPC強すぎんだろ!」
どうやら先客がいたようだ。一脚しかない三人掛けのベンチの端には、よく目立つ金髪の男子高校生が座っている。制服が同じだが、その顔に見覚えはない。大揮は一年なので、そうなると彼は二年か三年の先輩だろう。大揮は少し緊張しつつ、「あのー」とおそるおそる声を掛けた。
「すみません、お隣いいですか」
大揮が声を掛けると、金髪の男は弾かれたように顔を上げた。目尻は吊り上がっていて瞳は細長い。髪の色もあいまってキツネのようだと感じた。
「……いいよ! どーぞ!」
「ありがとうございます……雨凄いっすね」
「んね~。あっはは、びっちょびちょじゃん。ウケんだけど、髪張り付いてカッパみたい、ギャハハ!」
男は一つ空けて隣座った大揮を見るなり指をさして爆笑し始めた。見ず知らずの初対面の男に『河童』呼ばわりされ、思わずむっとしてしまう。しかしこの男の笑い声、喉がケロケロと鳴っていてなんだか独特だ。不快ですと顔に出ていたのか、大揮の真顔を見た男は急に笑うのをやめて、ばつが悪そうに頭を掻いた。
「あー……ゴメン。あまりにもカッパで」
「河童河童言うのやめてもらえますか」
「うん、ごめんね。名前なんて言うん? 俺ねキズナ。変な名前っしょ」
「別に。珍しいとは思いますけど変ではないです。俺は大揮っていいます」
お世辞でも何でもない。単に思ったことを口に出せば、キズナは目を丸くした。
「嬉しい。ありがとうダイちゃん」
「……」
名前を教えて三秒であだ名を勝手に付けられたことに面食らって、大揮は言葉を返すことができなかった。
「ダイちゃんも東高なんだねー、俺も俺も。何年?」
「一年です」
「じゃあタメだ!」
「えっタメ?」
素で驚いて思わず敬語が外れてしまった。だってこんなに目立つ人なら、絶対に覚えているはずなのに。
「マジで? 何組?」
「おおっ、ダイちゃん選手、食いついております。どうやら俺に興味が大アリのようです。でもごめんっ、俺には心に決めた人がいるのでぇ」
「いや違ぇし、自惚れんな」
急に片手を握ってマイクのようにしたそれを口元に持っていき、実況者のような口ぶりをし始めるキズナを前にして、大揮は思わずツッコミを入れた。
「おお~~っ、『うぬぼれる』なんて難しい単語を知っているなんてかっこいいですねぇ。これは加点要素ですよ!」
「全然難しくないし、俺は何の採点をされてんの?」
「株式会社キズナゲームズの個人面接です」
「試合じゃないんかい」
変な人だ。そう感じる大揮の横で、キズナは再び大きな口を開けてケロケロと喉を鳴らしながら膝を打って笑い始めた。どうやら大揮の返答はお気に召してもらえたらしい。一方で大揮はキズナのペースに巻き込まれてどっと疲れてしまった。
何がそんなに面白いのか腹を捩りながら笑いこけるキズナを呆れながら横目で見ると、ふと彼の服装に目を引かれた。今は九月。今日も日中は三十七度近くの猛暑で、今だって雨が降っているといえどもじめっとした蒸し暑さは変わらない。
それなのにキズナは手のひらまで隠れるほどゆるっとした長袖のシャツを身につけているものだから、暑くないのかと心配になる。それに、彼の膝の上に置かれている鞄だって変だ。白い肩掛けのショルダーバッグは経年劣化のせいかボロボロだ。見た目に気を配ってそうなのに意外だな、と不思議な気持ちになる。
ふと、大揮の視線は鞄の持ち手の部分に引き寄せられた。
「っはぁー、笑った笑った。久しぶりにこんなに馬鹿笑いしたわ。……ん? 何見てんの、ダイちゃん」
「それかわいい」
「なんのこと? あっ、もしかしてこれ!?」
大揮が『それ』に注目したことに気付くと、キズナはぱっと顔を明るくした。
スポーツバッグに付けられたストラップ。チェーンの先にはコミカルな顔をした茶色のクマがぶら下がっている。
「可愛いっしょ。俺のお気に入りなんだ〜。クマすけっていうの」
「名前あるんだ」
「うん、俺が命名した。毎日一緒に寝てんだもんなぁ〜」
「えっ一回一回外してんの!?」
「そうだよぉ〜愛だろ?」
やっぱり変わっている。ニシシ、と白い歯を見せて笑うキズナを見ながら、大揮もつられて目尻を垂らした。
「でもあれだね、キズナくんってキツネに似てない? そこはキツネじゃないんだ」
「ね〜〜急に失礼すぎてウケんだけどダイちゃん! でもよく言われんのよねそれ、キツネじゃないんかい、って! まぁなんでクマなのかっていうとさ……」
キズナはそこで一旦区切ると、急にもじもじとした様子で言葉を続けた。
「……好きな人がクマに似てんの!」
「おお、好きな人いんのか」
「そうなんだよぉ……くぅぅ恥ずかし〜……」
さっきまでの快活な感じはどこへやら、彼は今生娘のような恥じらい方をしている。耳まで真っ赤にしながら顔を両手で覆い隠して、「くぅ」だか「うぅ」だか唸っているキズナくんに、大揮は少し意地悪をしてやりたい気持ちになった。
「で? どこまで進んでんの?」
「ばっ……! どこまでも進んでねえよ! あーあー、ダイちゃん選手、これ以上聞くのはやめてくださぁい、レッドカードで即退場になりまぁす」
「照れないで教えてよ。俺キズナくんに興味ないって言ったけど、キズナくんの好きな人には興味あるから」
「……いや酷くねそれ!?」
予想通りの反応が返ってくるので、大揮は思わず声を上げて笑った。
「えー……まあいいけど。幼馴染なんだよね、その人。んで、中学も高校も一緒。クラスも部活も一緒。ずーっと一緒だった」
しみじみと遠くを眺めながら語る横顔には、さっきまでの明るさは見つからなかった。どこか大人びた、達観しているような表情。
「なんで過去形?」
大揮が聞くと、キズナはこちらを振り向いた。困ったように微笑んでいる。
「笑顔を崩したくなかった。クソみたいにお人好しなヤツだからさぁ、背負い込ませるのがイヤで、大事なこと何ひとつ言えなくて」
彼が視線を落とす。その視線の先には、クマのキーホルダーがあった。
「……でも後悔はしてない。いつかアイツの結婚式に呼ばれたとき、俺は笑って祝ってやれねえもん。これでよかったんだよ、全部」
ぱっと顔を上げて、下手くそな笑顔を貼り付けるキズナくん。なにひとつ腑に落ちないまま、大揮は眉間に皺を寄せた。
「なんで? 要するに告ってないってこと?」
「うん、そういうこと」
「今からでも遅くないじゃん。気持ち伝えなよ」
大揮がそう言うと、キズナくんは目を見開いた。
「ダイちゃん俺の話聞いてたぁ? 俺はアイツの足枷になりたくないんだってば」
「でもキズナくんの話大事なところが抜けてるだろ」
「大事なところ?」
うん、と頷いてから、彼に伝わるようにゆっくりと言葉を紡ぐ。
「幼馴染ちゃんの気持ち」
「きもち……」
キズナくんはうわ言のように繰り返した。
「そんなにずーっと一緒にいたキズナくんが、何か言いたそうにしてるんだったら、なんかあったのかなってさすがに気付いてると思うよ」
「……」
「結婚式なんていつの話してんの。大事なのは今ね。キズナくんが幼馴染ちゃんのこと大事に思ってるように、幼馴染ちゃんだってキズナくんのことを大事に思ってるんじゃないかな」
すっかり黙り込んでしまったキズナの横顔は、何かを考え込むように真剣な眼差しをしている。きっとあと一押しだ。大揮はごくんと唾を呑みこんで気合いを入れ直すと、背中を押せるように再び口を開いた。
「つまりなにが言いたいかっていうと──」
「大揮?」
後ろから名前を呼ばれて反射的に振り向いた。バス停のそばに紺色の傘を差した青年が立っている。
「久晴先輩、お疲れ様っす」
「お疲れ。こんな所で何してんの?」
ダークブラウンのふわふわとした髪が特徴的な彼は、大揮より一つ上の部活の先輩だ。
「傘忘れたんで雨宿りです。てか先輩傘持ってんのすごくないですか?」
「晴れ雨兼用の折り畳み、いっつも鞄に入れてるから。おまえそういうの持たなそうだもんな」
「おっしゃる通りです。あ、座ります?」
大揮はキズナとの間に一つ空いていた席にずれて久晴を呼び寄せた。久晴は傘を閉じると、さっきまで大揮が座っていた席に腰を下ろす。
「先輩雨苦手でしたよね。体調大丈夫ですか?」
「覚えてんの? すげえな」
「そりゃ有名ですよ。低気圧だと偏頭痛がするからって毎回保健室で休んでるじゃないですか」
「はは、そうやって広まってんのか。まああながち間違いではないけど」
久晴は目を細めて笑った。そうすると目元の泣きぼくろが強調されて格好いいって、マネージャーが言ってたっけ。
雨が強まる。蛇口を一番強く捻ったシャワーみたいな土砂降りの雨がアスファルトを叩き付けていく。久晴はじっとその様子を眺めている。
ふと大人しくなったキズナの方に顔を向けると、彼もこっちを見ていたので思いがけずに驚いた。しかし鼻の穴を膨らませながら肩を跳ね上げる大揮のことなんか、キズナの視界には入っていないようだった。
久晴を見ている。どうやら途中からやってきた彼のことが気になるらしい。なんとなく気まずい空気に耐え切れなくなった大揮は、久晴の顔を覗き込みながら話題を振った。
「今ね、恋バナしてたんですよ」
「……?」
久晴はきょとんとした顔をしている。
「先輩は好きな人います?」
「ぶっ……」
大揮の横でキズナが吹き出したのが聞こえた。一瞬振り向くと、キズナは何故か俯いたまま耳を塞いでしまっている。
「いるよ」
久晴は即答した。
「えっいるんですか!? 先輩ってあんだけモテてるのに彼女とか作らないから、もしかしてとは思ってたんですけど」
「おまえは俺のことよく知ってんなあ。……まあ、好きな人にモテなきゃ意味ないからな」
「うわカッケー、言ってみたい。でも久晴先輩が好きになる人って、どんな人なんだろ。全然想像つかないや」
身近な人物の思わぬ秘密に盛り上がる大揮をよそに、久晴は終始落ち着いた様子だった。少しの沈黙の後、ぽつぽつと語り出す。
「なんかなあ、変なヤツなんだよ」
「変?」
「ずーっと喋ってんの。んで、急に一人で笑い出して止まんなくなる。忙しいヤツでさぁ。癖なのか目に入ったもの何でもかんでもすーぐ実況し始めんの。そんなヤツ見たことある?」
楽しそうに笑う久晴につられて笑いながら、どこかにそんな人いたような、と何かが引っ掛かる。
「ゲーム負けるとすぐムキになってキレるし、でもクソ弱いから絶対俺には勝てねえのね」
「……ふふっ、先輩強いんですね」
「アイツが弱すぎんの。そんなアイツと馬鹿騒ぎすんのが本当に楽しくて面白くて……っはは。あー懐かし。忘れらんない、ずっと」
久晴は笑いすぎたのか、目に涙を浮かべている。骨ばった指先がそれを拭うのがスローモーションのように見えた。
「……ちょうどこの場所だったんだ、アイツと最後に話したの。あの日もこんな風に雨が降っててさ」
「え?」
「知らない? 一年前、うちの学校の生徒が飛び降りたって話」
思わず息を呑んだ。入学当時から学年中を駆け巡ったその噂を、大揮が知らないはずなかった。
「幼馴染だったんだよ。アイツもサッカー部でさ、いつも一緒だった」
ゆっくりと思い出の蓋を開けるみたいに、久晴が懐かしげな瞳で語り始める。
「なにか抱えてることはなんとなく気付いてたんだ。高校入ってからアイツん家離婚して、たまに浮かない顔してたけど、デリケートなことだから聞き辛くて」
久晴の開いた膝の上で、ぎゅっとその手が握られた。
「今でも後悔してる。あのとき俺がもっと気にかけてたら、アイツを失わずに済んだんじゃないかって」
「……」
「……って、いきなりこんな話されても引くよな。ごめん、忘れて」
淀んだ空気を打ち消すように、久晴はわざとらしく明るく笑っている。ばらばらに散らばったパズルのピースがはまっていくように、大揮は一つの仮説に行き着いた。
「……どんな人だったんです?」
「え? ……ああ、さっき話してたヤツ?」
まさか深入りされるとは思っていなかったのだろう。大揮が頷くと、久晴はきまりが悪そうに視線を泳がせた。
「底抜けに明るくて、根っからの優しいヤツ。そうそう、笑うとカエルみたいな声出すんだよ。可愛いだろ? でも顔はキツネに似ててさ、こーんなに目が細いの。髪も校則破ってよく金髪に染めてたなあ、だからますますキツネにしか見えなくて──」
久晴の話の途中で耐え切れなくなり、大揮は意を決して勢いよく振り返った。
しかしさっきまで隣に座っていたはずの男は、もうそこにはいなかった。代わりにぽつんと、椅子の上に何かが落ちている。
「大揮? どうかした?」
「……あの、先輩の苗字って何でしたっけ」
「俺? 熊沢だけど」
不思議そうに答えてくれる久晴の頭では、パーマのかかった茶色の髪がふわんふわんと揺れている。なるほど確かにクマに見えなくもない。
「あれ、雨やんでる」
久晴の声につられて顔を向ければ、ピタリと雨はやんでいた。いつからそこにいたのか、雲の切れ間から夕焼けが顔を出している。オレンジ色に染め上げられていく街をぼうっと眺めながら、大揮はさっきまでの出来事をどこか夢のような気分で反芻していた。
「帰るか」
「あの、先輩」
「ん?」
「──これ」
大揮が差し出した物を見て、久晴の顔から笑顔が消えた。
「さっきまでここで恋バナ、してたんですよ」
ごくりと久晴の喉が鳴る。
その手がおそるおそる、大揮の手のひらに乗っているクマのマスコットを迎えにくる。その指先は震えていて、だけどしっかりぎゅっとそれを掴んで、離れていった。
「……っは、まじか。……まじかぁーー、だから……なんかおまえの様子がおかしいと……そういうこと? は〜〜?」
久晴は脱力したように身体を折り曲げると、片手で顔を覆ったまま動かなくなってしまった。しばらくしてから再び顔を上げたその目元が潤んでいたことは、あえて口にはしなかった。
「探してたんだよこれ。どこにもなくて……そっか、アイツが持ってたんだ」
「毎晩一緒に寝てるって言ってました。クマすけって言うんですって」
「っふは、なんだそれ。ばっかじゃねーの、俺の前ではいらねえって意地張ってたくせに」
「先輩があげたんですか?」
「そうだよ。ゲーセンで取ったんだ。ほら」
そう言って久晴は自分のリュックを取り出した。そこにはあのクマと同じ顔をした、キツネのマスコットがぶらさがっている。
「馬鹿だよな。どこまでも強がりで、それを隠し通せると思ってる馬鹿」
でも、と久晴が続ける。
「そんな馬鹿を守れなかったどころか気持ちすら伝えられなかった俺の方が大馬鹿者だ」
久晴は立ち上がると、清々しい笑顔で大揮の方を振り返った。
「──ありがとう。またアイツに会えたみたいで、すごく幸せだった」
ゲームが弱い。すぐ実況する。キツネみたい。カエルみたいな笑い声。
そして久晴のことが好き。
もしもキズナが強がらずに想いを告げていたなら、二人は今頃どうなっていたのだろう。久晴が勇気を出して手を差し伸べていたなら、二人は今でも並んで歩けていたのだろうか。
そんなたらればを頭の中で繰り返す大揮の視界の中心に、久晴のリュックが映る。そこには同じ顔をして笑うクマとキツネのマスコットが、寄り添うようにして並んで揺れていた。

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