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びっしょり濡れたグラスを握りしめ、ストローの先端に歯を立てる。原型のなくなったそこから、ぎちぎちと耳障りな音が鳴った。
この喫茶店に入って約一時間。アイスコーヒーが届いてから、恐らく三十分ほど経った。グラスの中身は一滴も減っておらず、荒く削られた氷が溶けて黒い液体の上に膜を作っている。
つい昨日の出来事だ。俺は高橋と性行為をした。いや、挿入をしていないのだから、挿入しなければセックスと言わないとか、そんな線引きや決まりがあるならしていないことになるだろう。だけど、俺にとってあの行為はセックスと言える。
どうせ色んな人と遊んでるくせに、俺を抱くことには興味がないと言われたようで腹が立ち、みっともなく誘ってしまったことを今さらながら悔やむ。
あのあと、情けないことに意識を飛ばした俺が目を覚ましたのは夜中だった。しかもあんなに体液にまみれていた身体はさっぱり綺麗になっていて、服もしっかり着込んで、肩まで布団がかけられていた。
高橋の姿はなかった。恐らく自宅に帰ったのだろう。二度寝をしようともう一度布団にもぐり込んだけど、散々家の中を探し回った間に冷えたシーツに耐えられなくて、一睡もできなかった。
先日テレビで春日和という言葉を耳にしたばかりなのに、深夜はこんなにも寒いのかとまた腹が立った。
周りに店員がいないことをチラリと確認して、グラスを指で押し退ける。水滴が落ちているのを見つけたが、気にせずそこに突っ伏して頬をくっつける。すると目に入るギリギリに前髪がはらりと落ちてきた。
焦げ茶色で癖のある髪。染めてもいないのに自毛は明るく、パーマをかけたようにくるんと細かくはねてしまうこの髪の毛が、昔から好きじゃなかった。他にも、男にしては肌が白く中性的に見える容姿は、よく美人だの王子様だの揶揄われた。
どんな見た目だったら高橋は俺を抱きたいと思ったのだろうか──?
愚問だと思う。でも、そう考えずにはいられない。
もしくは、中身に問題があるのかもしれないが。
まあ、もうどちらにせよどうだっていいことだ。昨日の出来事を抱えて生きていく俺と、きっと明日には忘れて他の人とデートでもしそうなあいつ。どうしたって、同じ方向に進めない。
実際に高橋がホテルにいるところを見たわけではないけれど、火のないところに煙は立たないというし、あの容姿だったら十分あり得る。
未練がましいのは自分でもわかっている。でもせめて、あんな風に疑似セックスをするのなら無理やりにでも挿れて欲しかったのに。そうしたら、それを思い出して燻る体を慰められるのに──。
そう考えて、前髪を指先で絡め取った瞬間、机に置きっぱなしにしていた携帯が振動した。咄嗟に体を起こす。
(……高橋からだ)
メッセージが届いていた。高橋は普段メッセージより電話を好むから、珍しさに刮目する。
『なにか食えるもの作ってくれない?あと、来るとき風邪薬を買ってきてほしい』
思わず瞼を閉じてきつく絞った。敬語ではない時点で、明らかに俺に宛てたものではないと分かる。
(風邪薬って、熱でも出たのか?しかも飯を作れってなんだよ……それ)
明らかに親密な間柄だ。相手は男だろうか、女だろうか。付き合っている人がいるなら、俺と昨日あんなことをして罪悪感はないのだろうか。
──ああそうか、あれは高橋にとっては浮気どころか、遊びにすらならない行為だったということか。
「うざ」
追い打ちをかけるかのように続けてメッセージがきた。
『間違えました』
たった一言、それだけ。視界がぐらりと揺れる。テーブルを投げ飛ばしてしまいたい気分だった。
ぬるくなったコーヒー水を胃に流し込み、立ち上がる。もうこんな男のせいで悩むのはうんざりだ。
車を近くの駐車場に停めて、高橋のマンションに向かった。どうやってエントランスに入ろうか一瞬悩んだが、ちょうど住人が開けてくれたおかげですんなり入ることができた。本来なら良くないことだけど、仕方ない。
エレベーターに乗り込んだ瞬間、すぐ後ろから大きめのビニール袋を持った男が入ってきて一緒に乗ることになった。
沈黙の気まずさを紛らわすために、前に立っている男を盗み見る。背は低めだが、服の上からでも筋肉がそこそこあるのが分かる。綺麗な黒髪からちらりと覗く顔は、かなりの童顔。
右手に持ったビニールの袋の端からはネギの頭が飛び出ている。その下に、卵や栄養ドリンクのようなものが袋の外から透けて見えた。
(この人……もしかして)
一気に心臓が速くなる。高橋がわざわざ呼びつけてご飯を作らせようとしているのは、この人なのかもしれない。
あいつはこういう童顔が好きなのだろうか。自分とは全く違うタイプだ。しかも、同性。
この人がもし女性だったら、きっとまだなんとか自分を納得させられた。男の俺では敵わないと。
だが、相手が男となったら話は別だ。男には本気になったことがないと言っていたあの言葉が、どうしても引っかかる。
「……あの。もしかして、高橋のところに行くんですか」
「えっ」
男は急に話しかけられたことにひどく驚いたようだった。
軽く俺のほうを向き、「はい……そうですけど」と蚊の鳴くような声で言った。可愛らしい見た目ながら、内向的な性格なのだろうか。
高橋の部屋がある階にエレベーターが着いた。男を追うようにして降りる。チャンスはここしかない。
「お願いです。俺に、行かせてください」
深く腰を曲げる。何かのためにこんな風に人にお願いするのは初めてだ。
男は困惑しているらしく、えっと、あの、と言葉にならない声しか落ちてこない。
「お願いします」
「あいつの友達ですか?僕は仕事があるので、これを預けてもいいなら助かりますけど……」
だから、頭を上げてください。そう言って手を差し出された。ついでに袋も渡される。
なんでいきなり話しかけた俺を信用してくれたのかは分からないが、男は軽く微笑んだあと、今乗ってきたエレベーターですぐに降りて行った。
「なに、あれ」
高橋の恋人は、性格まで良いのか。全く勝ち目がない気がする。
逡巡して、玄関のドアノブに袋をかけて帰ろうかとも考えたが、さっきの男の笑みを思い出すとこのまま諦めたくないとも思う。散々悩んだ挙句、結局インターホンを押した。
ゆっくりとドアを開けた高橋は無言だった。俺はというと、顔を直視できず、少し乱れたシャツの胸元を見ながら来てしまった言い訳を探す。
「……あ、……その」
風邪だというのに、白いブイネックの薄手シャツ一枚に、黒いスウェットを履いている。スタイルが良いからこんな格好でもさぞ様になっているんだろうなと顔を上げた瞬間、思いっきり目が合ってしまった。生唾を飲み込む音が廊下に響く。
高橋はじっと俺の顔を見つめていた。熱のせいなのか、目が充血している。まずい。なにがそう思わせるのかわからないが、とにかくそう感じる。
右足を半歩後ろに引いたのがきっかけで、腕を思い切り引かれて中に引き摺り込まれる。そのまま、俺はなぜか高橋の腕にきつく抱擁された。
「た、高橋?」
玄関の扉に押し付けられるような形で高橋の腕の中に閉じ込められて、全く身動きが取れない。目の前の首筋から、香水かなにか濃厚な花のような香りが漂ってきて、足の力が抜けていく。
何より、こいつにこうやって抱きしめられているという状況に息が止まりそうだ。
「はなせっ、て」
ぐ、と肩を掴んで押し返そうとすると、その手首を痛いほど強く握られる。もう片方の手が俺の後頭部に添えられて、有無を言わせない力で引き寄せられた。
重なった唇は熱くて柔らかかった。それに、無作為に動き回る熱い舌も。
「ぅ……ん……っ、ん」
なんでキスされているんだろうか。冷静になれない頭をなんとか働かせて、可能性を考える。そして、あることに思い当たった。
(もしかして……さっきの男の人と俺を勘違いしてる?)
元々ここに来るのはあの男だったわけで、俺が代わりに来るとは一切告げていないし、風邪のせいで思考がまともに働いていないのかもしれない。
そう思った途端、一気に体から熱が消えていく。俺はあの男だと勘違いされて、こんな熱烈なキスを受けているのか。最悪だ。
「離せって、高橋!」
「こんなときに……なんでここにいるんですか」
「え?」
「先輩。なんで来たの?しかも泣いてるし……そんなにキスが嫌だったんですか」
伸ばされた長い指が頬を緩く擦って、水滴を拭っていく。勘違いされたわけではないということに驚いて、泣きたくないのになぜか涙がどんどん溢れ出てくる。
「な、なんで、キスなんかしたんだ」
「先輩が悪いんですよ。熱のせいで理性なんか効かないのに……こんな風に現れて。まさか、昨日俺にされたことを忘れましたか」
少しだけ体を離されたおかげで、揶揄うように引き上げた口の端が視界に入った。
「忘れるかよ。大体、さっきの……あの男の人と付き合ってるんだろ?なのになんで俺にあんなことしたんだ?最低だな」
「付き合ってる?」
「前に言ってたよな。男に本気になったことはないって。あれは例外か?俺を弄んで楽しいか」
言っていて再び熱くなってきた目頭を押さえて、目の前の男を睨み上げる。予想外にも、高橋は目を見開いて驚いた顔をしていた。
「男女関係なく、俺は遊んだことなんかありません。付き合ったことがあるのは女性だけだし、それも数回程度です」
まめに連絡できない性格で、すぐ振られるんです。そう苦い顔で言われて今度はこちらが驚く番だった。
「さっきの人は?ここに来ようとしてた」
「あれはただの友達」
「じ、じゃあ……俺に触ってきたのは?」
抱かれたことはないが、何回も体を触られたし、いつも慣れているような様子だった。男と経験がないとは信じがたい。
はっきりと事実を言えと睨む俺に折れたらしく、高橋は目を閉じて溜め息をついた。
「正直に言います。入社した頃から先輩に惚れてました。でも、ゲイでもないのに抱かせてくれるわけないから、完全に諦めてたんです」
なのに、と言ったきり言葉は続かなかった。話そうとしない高橋に焦れて、肩を掴む。観念したようにまた溜め息をついた男が、再び抱きしめてくる。
まさか入社した頃から好きでいてくれたとは……もの凄く損した気分だ。それなら早く言ってくれたらよかったのに。
「無防備なんですよ、先輩。こっちは我慢してるってのに煽ってきやがって……昨日は本気で抱いてやろうかと思った」
首筋に鼻息がかかって擽ったい。恐らく寝巻きであろう服から、さっきの良い香りがする。なんとも言えないむず痒い気持ちになった。
「俺は……お前の遊び相手にすらなれないのかと」
「バカですね」
「笑うなよ!真剣に悩んだんだからな」
「で、先輩は?そんなことを言うってことは期待してもいいんですか」
「当たり前だろ……好き、だから」
沈黙が落ちた。返事の代わりに、高橋の腕に力が込められる。
「……それ、本気で言ってます?」
「冗談でこんなこと言うかよ」
「やば……最高」
何をしてもほとんど仏頂面が、見たことがないほど笑顔になった。顔を両手で包まれて、目線を合わせられる。こんな弾けるような笑顔は初めてだ。こっちのほうがよっぽどいい。
「このまま抱きたいところなんですけど」
「あ、」
「やめておきます。まだ手も繋いでないですし」
「……なんだそれ」
意外な発言に笑ってしまった。今さら手を繋ぐだと?
高橋の指が俺の髪の毛を撫でるように梳き、そのまま額にキスを落とされる。
「風邪、移ったらすみません。さっきキスしちゃったから」
「いや……大丈夫。それよりベッドに戻るか?立ってるの辛いだろ」
さっきから顔が真っ赤だ。どれほど熱があるのか知らないが、料理できないほど重症なら、立っているだけでも辛いはず。
「でもお粥作ってほしいです」
「わかった、作るからちょっとベッド行って休んでな」
急に子どもみたいに甘えられて困惑すると同時に、滅多に頼られることがないから嬉しい。
緩む頬を見られないように足早にキッチンに向かおうとしたら、後ろからぐっと抱き寄せられた。
「ちょ、っと、なに……」
「言っておきますけど、俺は先輩が思ってるよりもかなり重い男ですよ。あんたが他の奴とどっか行くだけでも妬くし、浮気なんて許さないし、別れたいって言われてもそう簡単に手放せない」
「そう、なのか?」
これまた意外だ。高橋は人に執着しない人間だと思っていた。なんなら浮気はこいつのほうがしそうだけど……。
「俺がどんだけあんたのこと好きか知らないでしょう」
「し……っ、知るわけないだろ。言われたことなかったんだから」
「そうですよね、すみません。もっと早く言えばよかった。酔った勢いで初めて触れたときも先輩がひとりでオナってたときも、俺のものにしたいって、それしか考えてなかったんです」
「……それなら抱いてくれればよかったのに」
中途半端に熱を持て余すくらいなら、最初から抱かれたほうがよかった。そうしたらあんな風に悩む必要もなかったのに。
「まさか毎回そう思ってたとか言いませんよね?」
「思ってたけど」
「なんっ……はあ。じゃあ俺の我慢はなんだったんですか」
「いや、我慢してほしいなんて言ってないし」
急に高橋が静かになった。事実を言ったまでなのに、なぜか何も言い返してこない。なんで黙っているんだと振り向くと、悪魔のように恐ろしい顔がすぐそこにあった。
「へぇ、じゃあ今すぐ抱いていい?」
「……お前は熱があるからダメ」
「我慢しなくていいなら今すぐしたいです」
「風邪が治ったらな」
「先輩」
俺より身長が高いくせに、上目遣いで強請るように見つめてくる。
今すぐしたい。ずっと求めていた言葉に意思が揺らぎそうになるが、さすがに風邪で顔を真っ赤にしている人とそういうことをする気は起きない。それのせいで治るのが遅くなっても困る。
「ダメだ」
「じゃあ土曜日、デートしましょうか?セックスの前に」
「…………治ったらな」
「絶対ですよ」
目が笑ってなくて怖い。わかったと必死に何度も頷いたら、ようやく離してもらえた。
勝手に高橋は淡白で人に執着しないと思っていたが、その予想は間違っていたようだ。もしかしたらとんでもない男を好きになってしまったのかもしれない──と、今さらながら後悔した。

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