虚構の背中

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 「あら、面白いじゃない。今、あなたに起きてる現実は最高の脚本になるわ」  「え、脚本・・?」    セイカは、か細い声で聞き返し、貴子さんは淡々と続ける。  「ええ、そうよ。目の前の現実が嫌なら、裏切った夫なんてさっさと切り捨てて、別の幸せを掴む壮大な脚本に書き換えるの。きっとそれを見たフォロワーは称賛の嵐よ。あなたの人生を支援したい人達が集まってくるはず」 「ちょっと待って下さい。今確かに私は、現実が辛いです。でもそこから目を逸らさずに、主人とはちゃんと向き合っていきたいと思っています。そのためにも、いつも自分の日常を充実させる努力は必要・」  「現実を無理に動かそうとしても、うまくいきっこないわ。一度裏切った相手は、また裏切るものよ。あなたの脚本から外すべきキャストだわ」  そんなのおかしい。自分の現実から目を逸らしているだけだ。どう考えても、セイカの方が真っ当な考えにしか思えない。  彼女はこんな辛い日常を切り売りして、インフルエンサーの教えを乞わなくたって、きっと自分の力で乗り越えていけるはず。  けれど現実を変えたい。日常を充実させなければ夫は帰ってこないと、それほどまでに追い詰められていたのだ。  貴子さんを見つめるセイカの表情が、羨望の眼差しから疑心を湛えた眼差しにみるみる変わり始めているのを、私は見逃さなかった。    またズボンのポケットが振動する。隆彦と志保は大丈夫だろうか?  隆彦は志保が大変な最中でも、私に帰って来いとは言わなかった。出掛ける時、あんなにひどい事を言ったのに。私はいつも夫のやさしさに甘えている。    周りから見れば、私はいつも余裕がなくて、何の面白みもない日常を過ごしている主婦なのだろう。  でも自分の幸せは、SNSで評価されるためにあるものじゃない。  ましてや、人生は簡単に書き換えられないもの。  だから、隆彦と志保は私にとって脚本の中の1キャストなんかじゃない。大変だけど、それなりに充実した人生を体験をさせてくれる、なくてはならない存在。  もうこんな場所、一分一秒もいたくない。    私はセイカの腕を掴むと立ち上がった。彼女は驚いた顔で見上げる。  「ありさ、どうしたの?」  「セイカ、帰ろう。ここは私達の居場所じゃない」    有無を言わさないとばかりに見つめると、セイカは瞳を赤く潤ませて頷いた。   「・・うん。そうだね」  貴子さんと同じ髪形の女性達が、不思議そうに私達を見ている。     「あら、帰られますか? お話はまだ終わってませんが」    背筋美人講師の無機質なトーンは、やっぱり胸がざわつく。  私は彼女に向き直ると声を張った。  「はい、帰ります! 私達はどうも間に合っているようなので」  「そう。良かったわ。あなたはとっても満たされているようだけど。参考までにどんな日常を送ってらっしゃるか、教えてもらえるかしら?」  「はい! 夫の手取りは16万で、月5万円の賃貸アパートに住んでいます。生活費は不用品を売ってやりくり。得意な料理は、ちくわでかさ増しするハンバーグです!」  今度は会場が、嘲笑を含ませた声でどよめく。セイカが困惑していた。    「そう。それであなたは幸せなのかしら?」    余裕綽々の表情を向ける貴子さんに、私はここぞばかりに胸を張って背筋を正してみた。    「はい。脚本を変える必要もないくらい満たされてます。あしからず!」  理解できないとばかりに苦笑いする貴子さんに、私は勝ち誇ったように堂々と背を向けて、セイカと会場を出た。

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