新開成留:16 痛みの価値

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新開成留:16 痛みの価値

「新開さん」  ウテナさんが私を呼ぶ。「もう逃げないから。お願い。もう一度おまじないをかけてください」  私は嬉しくなって、 「もちろんです」  と答えた。「謝らなくちゃいけないのは私の方です。でもウテナさん。本当言うと、もうあなたにはおまじないは必要ありません」 「え?」 「あなたは力の使い方を覚えた筈です。あなたは守りたいと思った人を、ちゃんと守れる人です」 「……そうなの?」  ウテナさんの目に涙が浮かんだ。彼女はそれを慌てて拭い、巨人に向かって頬の赤くなった顔を向けた。「やってみます」  右足を前に出した。そして左足を前に出す。私は自分の意志で巨人に向かって歩き出した。  風に煽られ、巨人が身に着けているレインスーツのフードが捲れた。記憶の中では虚ろな目をしていた巨人は、今や怒りに満ちた顔で私を睨みつけていた。人間ではないとはっきりわかる、瞳のない黄色く濁った眼球をひん剥き、小さなミミズが這い回っているみたいな深い鼻皺を刻み、涎を垂らして牙を見せ、今にも私に向かって飛び掛かってきそうだった。  ─── なんて怖ろしい  咄嗟に目を逸らしてしまいそうになる。おそらく巨人は、石動久弥の感情とリンクしていると思われた。久弥が離れた世界で自分の時間を生きている時、呪物として発動した巨人には何の感情も見て取れない。ただ術者の指令通り行動する操り人形に過ぎない。少なくとも夏の事件ではそうだった。だが今、巨人は久弥の感情がそのまま反映した状態で出現した、本来あるべき姿で私の前に立っているのである。  ─── 負けたくない  私は歩いた。  隣にはウテナさんがいる。  私に歩調を合わせ、隣を歩いてくれている。  と、 「行ってきます」  ウテナさんが先に動いた。彼女は巨人に向かってまっしぐらに駆け、眼前に両手を交差させて頭から突っ込んだ。巨人と小柄な女性が鋼鉄製の扉に激突し、凄まじい衝突音が夜の山々を駆け抜けた。  野鳥が飛び立った。  扉が歪み、人間一人が抜け出せる程度の隙間が開いた。  ウテナさんは膝を曲げてさらに低い所から巨人の体を突きあげた。波形のトタン屋根を破壊しながら高く飛んで、二人の体は夜空の黒と混じり合い、やがて見えなくなった。 「とんでもないご友人をお持ちだ」  声だけが聞こえた。出て来れる筈なのに、久弥はこちらへ出て来ない。 「それはもう、本当に」  言うと、 「答えを聞かせてください。何故、新開さんは私たちをいじめるのですか?」  久弥はそう尋ねた。  私は扉の前まで歩いて行って、久弥の顔を肉眼で確認出来る所で立ち止まった。もはやその男の顔に怯えはなかった。完全に見えたわけではないけれど、唇には微笑すら浮かんでいた。 「変、だからですよ」  尚もそう言うと、さすがに久弥も笑みを消し、 「だから、何が」  と問うた。 「そこからでも見えますよね。隙間から、ほら、これです」  ウテナさんの剛力によって、鋼鉄製のスライド式扉が内側に向かって変形していた。ちょっと姿勢を変えて覗き込めば、久弥の立つ場所からでも扉の外壁を確認出来るだろう。 「何ですか?」 「何ですか、ですか。私が言いたいのはこれですよ」  と指をさす。  扉と言わず、この廃屋の目に見える範囲、至る所に貼りつけられている真っ赤な呪符である。初めてこの場所に辿り着いた人間が、この異常な枚数の札に足をすくめない理由はない。あらかじめその存在を知っていない限りは、もれなくすべての人間が仰け反り、後退するだろう。 「なのに、あなたは一度もこの御札について触れなかった。変だと言い続けたのはそれが理由です」 「……なるほど」  面白い人ですね、と言って久弥は歪んだ扉の隙間から右手を突き出した。その手は何かを握っているようだった。ググ、と胸の真ん中に痛みが来た。  ─── 不吉な  よからぬものを握っているのは明白だった。右足を一歩後ろへ下げて逃げればいいものを、父譲りの命知らずの好奇心が裏目に出た。 「何ですか?」  尋ねた瞬間、久弥の拳が開いた。長い手指が花開く薔薇のように滑らかに蠢き、その中から黒々とした髪の毛が現れた。 「これ、」 「ふぐ……ッ!」  胸の中心、鳩尾の辺りにナイフで刺されたような激痛が出現した。そしてその痛みは瞬発痛ではなく、ズキズキと激しく脈打ちながらそこに留まり続けている。 「はぁ、拝み屋でしたか」  今更のように久弥は感心したような声で言う。私は呼吸が出来なくなって、胸を押さえたまま膝をついた。 「夜辺村の神を消し去ったそうですね。重利さんとの面会が叶わないので何が起こったのか調べるのに苦労したんですよ。ああ、拝み屋さんでしたか、道理で道理で」  一応、考えてはいた。  何故今このタイミングで久弥が廃屋にやって来たのか、という理由についてだ。もちろん偶然とも考えられた。いや、その可能性が高いと私は踏んでいた。偶然のいたずらが私とこの男を引き合わせただけで、私が朋永四郎の指令を受けて廃屋に来ずとも、久弥はこの日姉のもとを訪れていたのだろう、と。  だが違った。ダミの忠告をもっと真剣に受け止めるべきだった。この男は私に会いに来たのだ。この男は石動久弥であり、ダミの前で小泉草人を名乗った男でもあるのだ。 「痛いでしょう」  言いながら、久弥は扉を蹴って隙間を大きくした。そして億劫そうに身を屈め、廃屋の中から外に出て来た。 「今新開さんの胸にあるもの。それが、呪いの味です。当然一度くらいは受けたことがあるんでしょうね。拝み屋さんですものね」  肋骨の全てに痺れが起きていた。実際には肋骨の形に沿って、内臓と皮に痛みが広がっている。そして胸の中心、鳩尾に強い痛みが居座り、鼓動と一緒になって私の生命活動を停止させようと、毎秒、血流に毒素を送り込んでている。  呪詛の媒介となっているのは髪の毛だ。夏の事件で自ら切り落とした、私自身の髪の毛だ。  ─── どうやって手に入れたのだろう?  だが今それを考えた所で事態は好転しない。 「どうして……こんなこと」 「こんなこと?」  久弥は廃屋の壁に背を預け、跪いて頭を垂れる私を見下ろした。「どのことを仰ってます? あなたに呪いを打ったことですか。夜辺村に手を貸したことですか。それとも、小泉舟呟を殺したことですか?」 「……どうして」  久弥は身を屈め、私の頭に手を置いた。そして肩を掴んで、ゆっくりと私の体を仰向けに寝かせた。抗いたい気持ちは当然あった。だが、体は言うことを聞いてくれなかった。 「私もよく、姉さんにこうしてもらいました。少しは楽になりませんか?」  そう言いながら、久弥は地面に正座し、私の後頭部を膝に乗せた。優しく髪を撫でられ、私は恐怖と痛みのせいで無意識に涙を零した。 「そうそう、私もよく泣きましたよ。両親が死んでからは特によく泣きました。姉さんには感謝してもしきれません。姉さんがいなければ、私はとっくに路頭に迷い、野垂れ死ぬ所でしたから。いや、その前に私は、自分で自分に呪い殺されたことでしょう」 「二季、寺……」 「よくご存知ですね。そう、二季寺。あそこのクソ坊主の、おっと、いけませんね。小泉舟呟のせいで、私たち姉弟の人生は狂わされたも同然なんですよ……聞きたいですか?」  顔を覗き込まれ、 「はい」  と私は答えた。いいえ、と答えた瞬間死ぬ運命が見えた。  ─── お父さん。私、負けちゃった…… 「その女の子は」  久弥の声が聞こえる。「だだっ広い田んぼの畔道で……」  死んでいるのを発見された。特筆すべきは、その女の子が立ったままの状態で発見されたことである。遠目に見れば死んでいるとは誰も思わない。学校の制服を着たその少女が人気のない畦道に突っ立っている所を、近隣住民が発見した。 「そこで何やってる」  と、その目撃者は声をかけたそうだ。  ─── 顔色からして明らかに死んでたんだ。思わず声をかけちまった  その異常な事件は後にチョウジ案件となり、調査が開始された。遺体となって発見されたのは、当時石動家があった富山県内の隣町に住む河原萌(かわはらもえ)さんという中学二年生の女の子だった。履いていたスカートのタグにMKというイニシャル記名があり、当該地域で捜索願が出ていた河原さんと人相が一致した。人物の特定は容易に行えたものの、死因が不明だった。外傷がなく既往歴もなかったことから、立ったまま亡くなっていたことに対する合理的な説明がつかず、捜査は最初から難航した。ところが、思いがけず事件は意外な進展を迎える。 「あの女の子を畦道に立たせたのは、僕の姉さんだよ」  周囲に吹聴して回る男の子の噂がチョウジの耳に届いたのだ。 「その男の子こそが、当時七歳だった私なんだ」    石動久弥はそう述懐する。

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