震える背中

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 私のいきつけの喫茶店は、いつも閑散としている。土日の昼間に訪れてもお客さんは私を除いて一人か二人で、皆、マスターと仲の良い常連の人ばかりだ。  少し強面で、髪の毛はすっかり色が落ちたマスターは、一見すると近寄りがたい風貌をしているが、常連のお客さんと話をしている時は、ぱっと華が開いたように満面の笑みを見せて、太陽の光のように場を照らしてくれる。  私は、そんなマスターを見るのが好きだ。  ううん。誤魔化しはよそう。  私は、そんなマスターが好きだ。  仕事に追われ、毎日疲弊し切った身体で、唯一趣味である喫茶店巡りをしている時に、このお店を見つけた。  大通りから外れて路地の中に入らないと分からない位置にあるので、巡り合ったのは運命だと、私は勝手に思っている(ちょっと乙女脳が過ぎるかな?)。  お店に入ると、中はどちらかというとBarのような雰囲気で、カウンター席が幾つかとテーブル席が三つ置かれていた。  私はカウンターの奥から三番目の席に座り、今ではそこがすっかり定着している。  当時の私は、メニューを開くこともなく、表紙にでかでかと書いてあった【ブレンドコーヒー】を即座に注文した。早く帰りたかったからだ。まさか、喫茶店のマスターが、まるで元そういう筋の人です、と言わんばかりの強面だとは思わなかった。  鋭い目つきは睨んでいるようで怖いし、口の端にある切り傷はそういう筋の人だから、なんて思ってしまうし、おまけに体格もがっちりしていて、私は怯える子羊さながらプルプルと震えながら出て来たコーヒーを飲んだ。  年齢は。五十過ぎぐらいだろうか。  お店の外に出て、安堵感を抱きながらさっきのマスターの姿をぼんやりと思い出していた。  怖いし近寄りがたいし、きっともう二度とあのお店に行くことはないだろうけれど、私の脳裏には彼の姿がぼんやりと映し出され、刻々と鮮明に刻まれていった。  後ろを向いてコーヒーを淹れる準備していた彼の後姿は、とても、大きかった。                  *  私がまた通うようになったのは、説明すればとても単純で、でも、わたしにとってはあまりに複雑だった。世界中の何よりも、複雑でしかなかった。乙女心というものは、現代医学や化学、そして未来永劫に至るまで解明することなど出来やしないのだ。  私がまた新しい喫茶店を探して街を練り歩いていた時のことである。見知らぬ若い男性四人組に声をかけられて幾つか質問をされた。突然男性に囲まれたことで身体が硬直してしまった私は、まともに返答をすることが出来なくなって、しどろもどろになり、彼等はそんな私を見て笑っていた。彼らが言うにはなんでも、動画の企画撮影、とのことらしかった。  動画撮影の為だろう、スマホを向けられて私は更に固まった。声も上手く出せずその場で狼狽していると、二人の男性に左右から挟まれ、右の男性が私の肩に手を回してきた。  リラックスしましょう。なんなら、どっかで一緒に遊びますか?  そんな言葉が、私の意思を無視して宙を飛び交っていた。なんとかそれにぶつからないように努めたかったけれど、私の身体は既に言うことなんて聞いちゃくれなかった。  AV撮影になっちゃうじゃん。  そんなことを誰かが言って、私の目からは涙が零れた。抵抗できない悔しさと、どうなるのか分からない恐怖と、それと、何もしていないのにどうしてこなるのかという世界への無情さに、私は絶望した。コーヒーの黒色が透き通って見えるぐらいに、暗く深く。  彼らに黙って連れて行かれていると、ふと、彼等の笑い声が聞こえなくなった。  私は何事かと、身体を震わせながら顔を上げた。そこにいたのは、あの強面の喫茶店のマスターだった。  マスターは何を言ったのか、四人の男性は口をパクパクとさせた後、百メートル先にも聞こえそうな声量でマスターに向けて謝罪をして、マスターがまた何か言ったのか、四人は私に土下座をしてから走ってその場から去って行った。    私は、まだ震える身体を懸命に抑えながら、佇むマスターに向けて小さくお辞儀をした。声は、出なかった。 「だ、大丈夫でしたか? 産まれつき人相が悪いものですから、こういう時に役立つんですよ。あ、ああ、すみません。怖いですよね」 ――では。  そう言って、マスターは背を向けて歩いて行った。私は彼の後姿を眺めながら、彼の身体が少し震えていることに気が付いた。  翌日、お礼も兼ねてお店に行って、私はマスターが震えていた理由を知った。てっきり、自分の顔を怖いと思われたことにショックを受けていたのだろうかと思っていたのだけれど(助けてもらっておいて怯える私もひどい女だと思う)、真相は、どうやらマスターも若い男性四人組が怖かったらしい。  年齢通りに身体もガタがきていて、筋肉もそんなにあるわけでもないし格闘技だってやったことがない。殴りかかられたら対抗する術など何もないんだ。  マスターはそう言いながら私に笑いかけ、その後に「でも、貴方が無事でよかった」とそう付け加えた。  はっきり言って、そういうのはずるい、と思った。下心なんて一切感じられず、本当にただ、人が良いだけのその発言は、心が弱っている人間なんて簡単に落とされてしまう。  そんなこんなで。  私は今日も二回り年上のマスターの働く後姿を見ながら、コーヒーを啜る。震えていた後ろ姿をたまに重ねて、小さく笑ったりしながら。  テーブル席の方から、年配の夫婦がマスターを呼んだ。彼らも常連で、マスターは雑談を交えながら注文を聞いていた。  聞き間違いではないだろう。旦那様の方が「あんな若い子に熱い視線向けられて、羨ましいな」と言った。奥様の笑い声が聞こえる。  マスターは「そんなわけないでしょう」と、否定した。  苛立ったわけではない。どういう感情だったのか。恐らくきっと、多分……寂しいとか悲しいとか、そういう方面の感情だったのだと思う。  私はがたっと椅子を揺らして立ち上がり、マスターたちに背を向けたまま―― 「そんなわけなくは、ないです!」  と、高らかに宣言してしまった。      

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