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本棚に追加恋情⑿-5
「飛田君、君にお客さんだ。美しいご婦人だぞ」
編集室の机で潜水艦の奇譚を書くべく唸っていた流介に、先輩記者である笠原升三が言った。
「誰だろう。僕が知っている美しいご婦人は大抵、一筋縄ではいかない人ばかり……」
入り口の方に目を向けた流介は、この編集室で会うことはほぼないに等しい人物の姿を認め「おや、珍しいな」と首を傾げた。
「こんにちは飛田さん。お忙しい所、急にお邪魔してしまってごめんなさい」
「いや、別に忙しくはないよ。……しかし天馬君ならともかく君がここに来るなんて珍しいな」
流介が戸惑いながら話しかけたのは天馬の許嫁、安奈だった。安奈の日常は大体酒屋にいるか、馬車で仕入れ先を回っているかである。天馬と違い、新聞社に来る用事などないと思いこんでいた流介には新鮮な眺めだった。
「実は昨日、天馬がお店に来て「安奈、下のカフェ―に舞台をこしらえたいんだけどいいかな」って言うの。何の話かと思ったら「知り合いの歌い手さんがしばらく匣館を離れるので、僕や飛田さんに歌を披露したいって言うんだ」って言うの。びっくりしちゃった」
ははあ、『月船』――流泉さんのことだなと流介は思った。そりゃあびっくりするだろう。安奈は僕らと違い流泉さんにも雇い主の釈尊さんにも会ったことがないのだから。
「それで、なんて答えたんだい?」
「私も音楽は好きだし、たぶんできると思うって答えたわ。いらっしゃるのは飛田さんより五歳くらい若い男の人みたい。歌がとってもうまいそうよ」
「うん、実は僕も聞いたことがある。本当にこの世の物とは思えない声だよ」
「そうなの。そう言えば天馬もそんなことを言っていたわ。それじゃ、飛田さんも来て下さるってことでいいのかしら? 天馬と飛田さんの他にもう二、三人は入れると思うわ」
流介は「ああ、もちろん行くよ」と答えた。
「じゃあ、いつも『奇譚倶楽部』の例会をしているあたりのテーブルをどけて……と。ちょっと窮屈だけど、そんな感じでいいかしら」
「その辺はおまかせするよ女将さん。日取りが決まったら教えてくれと天馬君に伝えてくれないか」
「わかったわ。突然来てごめんなさい。それじゃ、仕入れがあるから私はこれで……」
用件を終えた安奈が流介に一礼し、身を翻そうとしたその時だった。
「――おお、なんということだ。酒屋の美少女は留守かと諦めていたら、こんなところでお会いできるとは……」
急に廊下の方から大きな声が飛んできたかと思うと、見覚えのある人物がひょっこり顔を見せた。
「……花夢さんじゃないですか」
「いやあ飛田さん。こんにちは」
曲芸団の主、花夢の登場に流介が面喰っていると花夢は流介をすっ飛ばして安奈に溶けてしまいそうな笑みを向けた。
「私、花夢曲芸団の団長、花夢と申します。……安奈さんですね? 実はこのたび、我が曲芸団では『坂道十九娘』という街の美少女を集めた舞踊団をですね……」
花夢の巧みな口上にひとしきり耳を傾けていた安奈は、「お話はわかりましたわ。こういうのではどうでしょう。一度、花夢さんにうちのカフェーに来ていただいて、私にそのような素質があるかどうか歌か演奏を聞いていただくというのは」と言った。
「なんと、そのような場をあなたから設けて頂けるのですか。これは願ってもない僥倖」
舞い上がっている花夢を視界の隅で追いつつ、流介はえらいことになったぞと思った。なにしろ安奈君の歌と楽器の腕前は、あの天馬君でさえもう止めてくれと降参するほどなのだ。
――天馬君、これからも君の出番は尽きなさそうだ。なにせこの街には、君以上の化け物がたくさんいるようだからね。
流介は花夢と安奈が去った無人の廊下を見遣ると、港に浮かぶ館の主に向けて呟いた。
〈了〉

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