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プロローグ/突如始まった、看病する・される3日間
■剣持 春彦
■一ノ瀬 亜紀
†
季節は冬。
夜10時。新宿のハズレ。
スーツとスーツが、よたよたしながらとあるマンションのドアの前にいる。ふたりの男の身長には、結構な差がある。だいたい30センチくらい。
「亜紀……アキ! しっかりしろ、うちに着いたから」
大きいほうが叫ぶ。一応、近所迷惑にならない程度に。そこそこいいマンションとはいえ、男ふたりが横に並んだまま入れるほど玄関は広くない。
「んー……」
大きいほうに肩をかかえられた小さいほうが返事代わりに唸る。普通に瞼を開けられない様子で、足元はおぼつかない。
「亜紀がいくらかわ──……いや、」
「ん……なに……?」
「んんっ」と咳払いをしてから。「いくらカワウソみたいにちっちゃくても重いには重いんだ、と言おうとした。とにかくしっかりしろ」
「俺、カワウソじゃなく……一ノ瀬 亜紀、159センチ、57キロ……」
「しっかりした自己紹介はいらない。お願いだから違う意味でしっかりしろ。……ていうか、意外と体重あるな? 重いはずだ」
「……春彦、声でけえ……頭、ぐわんぐわんして気持ちわるい……ゲロ吐きそう」
「それだけはなんとしてでも耐えろ……」
春彦が自分の部屋のドアを開けると、亜紀はよろよろと中に入り、靴も脱がないまま廊下に倒れ込んだ。
──コレだもんな、改めてびっくりだ
と、春彦は思う。
オフィスでの彼とは雲泥の差がある。常に柔らかな男ではあるが、どこか芯が通っていて、隙がないのだ。よく笑うのにあらゆる物事に対してクールで、分析力が高い。なんというか、「崩れない・崩されない」というイメージ。
しかし、プライベートで会うと「こういう亜紀」が現れる。なんとなく慣れなくて、春彦はいまだにびっくりしてしまうことがある。オフィスでの亜紀じゃない亜紀は、床に転がってぐずぐずしている。熱があるとはいえ、クールのクの字もない。
幻滅するか、と言えば、それは違う。妙な特別さがある。隙を見せてもらえるのが少し嬉しかったりする。
……いや、いまはそれどころじゃなく。
春彦は玄関にしゃがんで亜紀の皮靴を片方ずつ脱がせてあげた。ついでにネクタイを外し、丸めてポケットに突っ込んでやった。げろを吐いたときの被害を最小限にしておこうと考えたため。
「ありがとうございます……」
……と、亜紀はいつになくしおらしい。
だが、叱っておくべきと思った春彦は、「だから言っただろう」と続けた。「な? これじゃ電車に乗るのだって無理に決まってる」
亜紀はついさっきまで、立川の自宅アパートまで帰ると言って聞かなかったからだ。立川までは中央線で30分近くかかるし、帰宅ラッシュ時の乗客にとってひどい迷惑になる。実際、この医務室からさえひとりでは脱出できない。春彦が無力な友人を抱え、タクシーに押し込んでここまで来れたにすぎない。
なお、新宿のはずれにある春彦のマンションは、資産家だった祖父が残してくれた不動産のひとつだった。2010年代後半に建てられたものだから、1区画が広め。支払いは祖父が済ませていて、春彦は固定資産税しか払っていない。
「ここならすぐ近くでよかっただろ? 一応新宿だし」
何気なく春彦が言うと、
「立川は……新宿に負けるというのか……」
と、亜紀が悔しそうに答えた。謎に、心底悔しそうだった。
かわ……
……いや、そうじゃなく。カワウソです。
首を振り、思考にブレーキをかける。
具体的には「可愛いって言うの・思うの禁止令」を出す。
とりあえずその場をごまかすために、亜紀にはこう言ってあげた。
「いや、負けていない。立川は素晴らしい街だ。ただ単純に、いまのおまえにとって遠い存在というだけ」
「よかった。立川は強いはずだからな……」
「うん。立川は強い……たぶん」
しかたなく春彦は立川という土地を擁護し、亜紀をなだめた。友人のためとはいえ、住んだこともない街を擁護しなくちゃいけないというのは、なんとも微妙な気持ちだ。
「いまさらだけどさ、泊まっていいの」と、亜紀。
「ほかに方法がないからな。ホテルに泊まったって移動中含めてバイオテロだ」
「でも、せっかくの週末じゃん」
「いい。用事なんかないし、そもそもおまえに風邪を移したのは俺だから」
春彦はそう言って、亜紀の身体をかかえて起こした。
亜紀も、さすがに強がれないようだ。
「……わかった。春彦、ごめんな」
「気にしなくていい。最近仕事でも助けられてばかりだし、今回は俺のお世話になってくれ」
「ん……お世話に……なってあげます……」
「はいはい」
「へへ。おまえんち、久しぶり」
亜紀がふにゃりと笑う。会社で見せるあのクールさの欠片もない。
「……そうか? 覚えてない。ほら、がんばって立て。足元に気をつけろ」
「はい」
「……普通に返事するな」
「なんで普通に返事して叱られるんだ……ゲロ吐くぞ」
「やめろ。ゲロを武器にするな」
†
彼らは、同じ企業の同じ部署に勤めるサラリーマン。
ひとつの大きなプロジェクトを終え、やっと明日から連休を迎える。
少し前に春彦が風邪をひき、どうやらそれが亜紀に感染した。この冬は質の悪い熱風邪が流行していて、誰が誰から感染したかなど当然まったくわからないが、春彦は自分のせいだと信じ込んでいる。だから、もっともキツい状況を高熱のなか乗り越えた仲間に、どうにか罪滅ぼしをしたいと考えているのだ。春彦はラフ系イケメンという見た目と違って真面目である。
もちろん、それ抜きに考えても心配だったから。春彦にとって、亜紀はとても重要な仕事仲間で、それ以前に、数少ない「友人」と言える男だったから。
今日は金曜日。明日は土曜日。土日で連休。
ふたりにとって久しぶりのきちんとした休暇となる。
先に読者のみなさまにお伝えする。
亜紀の熱は、日曜の夜まで下がらない。
だから彼は風邪薬を飲まない
第一章 1.友人が嫌う風邪薬、死人レベルの昏睡
──金曜日の夜から土曜日の深夜/春彦視点
に、続く

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