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7.病から回復した友人/「距離をマイナスにする」の解釈
日曜日の深夜
春彦視点
†
亜紀が目を覚ました。
直後に自分の行為を責めることなく、なぜそんな顔をしているのかと訊いてきた。なにも、責めていない。
でも春彦は自分を責めた。
自分がどんな顔をしているのかなんて、わからない。どうでもいい。
亜紀が目覚める兆候はあった。熱も引いていた。熱があるときとは明らかに違った。起きているかもしれない、とも思った。
――そこまで考えられたのに、やめられなかった。
「いっそのことバレてしまえば」という気持ちがあったのだ。気持ちがあふれて、どうしようもなくなった。
隠すのは無理だ、もう、隠したくない。
自分の気持ちを否定したくなんかないのに、自分の気持ちに背いた行動をすることに耐えられない。
「俺はどんな顔をしている? 亜紀……」
「…………」
「看病するとか優しいことを言って、深く眠った友人に手を出すような頭のおかしい人間が、どんな顔をしていようとも……」
「やめろ」
「…………」
「そんな言い方しなくていい。ていうか、マジでやめろ。だってさ、ある程度はわかってただろ。俺は治りかけてたし、目を覚ます可能性は高い、ってことは」
「だとしたら?」
「だと、したら……だから、俺が完全に無防備じゃないってのはわかってたはずなんだよ」
それでもってことなんだから、なんか違うんだ。亜紀はそう言ってくれた。
組み敷かれても、この男の凛とした強さは消えない。理由を確認せずに他人を非難したりもしない。目の前の行為が関係を裏切るものなのは間違いないのに、冷静で、フェアだった。
「……お願いがあるんだ、亜紀」
声は、掠れた。亜紀の気持ちを利用することになったとしても、縋りつきたかった。卑怯者になってもいい。まっすぐ自分を見つめる眼が辛くて、悲しくて、愛おしくて。
「……なに」
「借りは必ず返すと言っていたな。そのぶんだと思ってほしい。今後は可能な限りおまえに関わらないようにする。早いうちに会社も辞める。それまでは、なんとか耐えてくれないか」
「……は? なに言ってる?」
「そのままの意味だ。申し訳なかった」
「会社を辞めるって、なに」
「じゃないと、顔を合わせることになるだろ。イヤでも」
「俺、いつイヤだって言った?」
「…………」
次の言葉が出てこない。
──俺は、亜紀の「なにもしなくて大丈夫だ」を待ってしまっていないか?
それはさすがにひどい甘えだ。そういうのを「相手につけ込む卑怯者」と呼ぶ。もうこれ以上卑怯者にはなりたくなかった。特に、この男相手に。
春彦は亜紀の上から退こうとした。
「──え、」
その瞬間だ。
思い切り引っ張られてバランスを失った。
春彦はまったく、まっったく予測していなかったので、なんの抵抗もなく身体ごと回転した。ミリ単位の受け身さえ取れなかった。ドイツにいた学生時代、ブドウ畑に自転車ごと突っ込んで宙で回転したとき以来の浮遊感とスローモーションだ。ワイン用の背の低いブドウの木が並ぶ畑道は舗装されておらず、でかめの石につっかかってそうなった。
(春彦は行動範囲が広かった祖父の事情に巻き込まれ、少年~青年時代に国内外の各所で田舎住まいを経験している)
ベッドに仰向けになっているのだと、数秒遅れて把握した。
「びっ……くり、した」
声を出せたのは、そのあと。
さらに、自分の腹の上に馬乗りしている亜紀がいた。
お見事、と言いたくなるくらい鮮やかに形勢を逆転以上にされたのだ。
「どうも」と彼は上のほうから言った。
「すごい」と春彦はシンプルに感想を言った。本当にそう思ったので。
「いちおう有段者だから、俺」
亜紀はなんてことないというように肩をすくめた。
「病人とは思えない」
「もう病人じゃないし」
「薬……飲んでなかったのか」
「飲んでなくてよかった。飲んでたらやりたい放題されてたかもしれないよね」
「……それは……本当に申し訳ないと……」
「しかしながら、ここまで回復したのはおまえのおかげです。ありがとうございます」
亜紀が若干棒読みで看病の礼を言った。
「どう……いたしまして」と春彦は礼儀正しく言葉を返した。
なにもかもが、風邪じゃないときの亜紀に戻っている。いまの回転技みたいなやつ)は非常に素早く、洗練されていた。日常生活でこれだけ「浮く体験」ができることなんかない。歩くにもふらふらしていた少し前までの亜紀が信じられなくなる。
「よって、もう力でおまえに負けることもありません。ちっちゃくても」
「それは、よかった」
「──だから。だから、ここから逃げないのは、俺の意思だ。覚えておけ。そっちの都合だけであれこれ決めるな。俺はひとっこともなんに関しても『イヤ』は言ってない」
「ん……わかった」
予想外の展開だった。安心しすぎて、気が抜けた。
二度とこんなふうに会ったり遊んだりできないかもしれないという恐怖心が消えてくれた。
ただ、この体位も予想外だった。落ち着いてくると、逆に別の方向で興奮してきてしまう。
「……ていうか、ごめ」と亜紀。「俺、重くね? 普通に乗ってるが」
「ああ、重くないし……その……」
「なに」
「さらに大変申し訳ないが、普通にご褒美だ。一般的に言うラッキースケベ?」
「えっ……わあ……」
「…………うん」
「なるほど……そうなるのな……」
亜紀も状況を把握できたようだが、それでも春彦の上から退こうとしない。そのまま腕を組んでなにやら唸っている。
しばらくすると「あのさあ、春彦……改めて聞くけど」と言ってきた。
「……こっ……このまま?」
「めんどいからこのまま。ラッキースケベ継続ならいいだろ」
「やあ……うん……」
「あのさ。おまえさ。俺でいいの? その、手を出す相手として?」
おまえ、基本的に間違えないけど間違えるときはすごい方向で間違えたりするじゃん、と続けた。亜紀だからこそ知っている、業務的内部事情。
「間違ってないよ。それは確実に言える」
「ホントかね」
「亜紀がよかった。我慢できなかった。寝ているおまえがあんまりにも可愛くて」
「マジで」
「うん。マジで。だからこういうことになっているわけで」
亜紀は「心底不思議だ」という顔をした。眉間のしわがぐっと深くなる。もう、それすら可愛い、と春彦は思っていた。
亜紀はまだ納得がいかなさそうだ。
「あの……これ、春彦に言っていいものか迷ってたけど……『秘書課のレイラ』がおまえを狙っているという噂があったりするけど……もったいなくない? めっちゃ美人じゃん」
『秘書課のレイラ』。秘書課の副主任をやっている森口レイラのことだ。人気があるのは知っている。そういう噂があるのも把握済みだ。
「……レイラはな……」
「えっ、親しい感じの呼び捨て?」
「従姉妹だ」
「……いとこ。え、親戚ってこと?」
「そう。あいつが俺を狙うもなにもない。違う意味では狙われるが……、よく思い出してくれ。誰かに似てないか。あ、喋り方はちょっとおいといて。レイラの社内での猫かぶりはひどいからな」
「……すぐわかった……マナさんだ……」
「あいつは、言ってみれば第二のマナだ。姉弟みたいに育てられたからよく知ってる」
その噂だって、彼女が面白がって否定しないから面倒なことになっているのだ。彼女は「ネタばらし禁止」と言うし、絶対に面倒が増えそうだから春彦もバレてほしくはない。
「えええええ……噂ってどうしょもないね……」
「いずれにせよ、俺がおまえよりも興味を持っている人間なんかいない」
「…………失礼しました」
そうだ、と春彦は思い出した。宮島に指摘された、「リーダーはいつも亜紀さんを可愛いと言っている」案件だ。
「俺はおまえのことを可愛いとひとまえで言っていたらしく……」
「うん。よく言ってる。普通に」
「やっぱそうなのか。無意識だった。金曜に宮島に教えてもらった。それはおまえのことを馬鹿にしているとか、そういうことではなく……その……」
愛おしくて。
そのひとことは言葉にしなかった。伝えるべきことをきちんと伝えなければ、なにを何度言っても同じだと思ったから。
亜紀は俺の言葉を静かに待ってくれている。上にいるけど。
だから、やっぱり言うべきだ。
春彦は亜紀を乗せたまま身体を起こした。彼を引っ繰り返してしまわないように。だから、抱きしめるように。
「おまえのことが好きなんだ。亜紀」
沈黙。
亜紀は身動ぎひとつしない。でも、逃げもしない。だから待つ。
「……ん」と、亜紀。「……よく……言えました」
しっかりと、顔を上げて。
おかげで、春彦が気に入っている左目の泣きボクロも見えた。自分の脚の上に乗っているから、いつもより顔の位置が近い。
「あのね。俺はおまえと違って物事を早く考えられないので、順序立てて説明してもらわないと混乱します。それに、おまえ自身混乱してたんだろうし。そんなの、俺が先に理解できるわけないじゃん」
「すまん」
「もうわかったから、いい」
「……ごめん」
謝罪すると、亜紀がふっと表情を和らげて、「まあ、おまえはそういうやつだよな」とつぶやいた。それは春彦に対する非難ではなく、ただの感想みたいだった。
「俺のどこがいいんだよ。可愛い以外で。あと、小さい以外でお願いします」
「頭がよくて回転も速くて、俺と正反対の考え方ができること。相手に応じた気遣いができること。本人がいないところでも……ちゃんと心配して、優しい言葉をかけてくれること」
亜紀がどん、と春彦の胸に額を押し当ててきた。
「……もしかして……み……みたの、アレ」
春彦が送った絵葉書と、そこに書かれたメッセージのことだ。
「見た」
「完全に忘れてた……前におまえが来るって言ったときはしまえたのに。やっぱ熱なんて出すもんじゃねえ」
「うん……ありがとう」
また、強く抱く。すり、と亜紀の頭が春彦の鎖骨に擦れる。
眠っている亜紀を抱くのは、まだ動物たちが目覚めない朝の森を思わせるような静けさがあった。でも、こうやって話して動く彼を抱くのは、小さな生き物をなだめるように心が落ち着くものだった。どっちもとても素敵だ。

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