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男のおっぱいは興味ないですか?
坂野先輩は、目つきが悪い。黒目に対して目そのものが大きいからか、三白眼のように見える。だから当然、睨んでいると錯覚することがある。
それこそ入社したばかりの頃、俺の教育係になった先輩は恐怖でしかなかった。当時は口数もそこまで多くなかったせいで、何か行動するたびに先輩の顔色を伺っていた。
無言で、あの鋭い目で見つめられると”怒られている”と思い込んでしまう。だから無駄に謝って、それに対して怒られたりしていた。「すみませんすみませんってうるせぇよ」と。
打ち解けた今となっては笑い話だ。先輩は目つきが悪いだけで、性格は悪くない。すぐアイスだの缶コーヒーだの奢ってくれるし、俺がミスして落ち込んでいたら、「そういうこともある」と慰めてくれる。外見からは想像もできないほど人情深い。
さきほど通ったばかりの企画書を持ってオフィスに戻る。嬉しくて、会議室から出た直後にスキップしそうになった。
自分のデスクではなく、先輩のデスクに直行した。パソコンのキーボードを叩いていた手が、俺の姿を認識した途端に止まる。
「お疲れ。通った?」
「はい」
「よかったじゃん」
「あざっす」
自分の企画が通ったのは初めてだ。何度も弾かれ、そのたびに先輩に相談し、ようやく課長に認めてもらえた。もう何度直したか覚えていない。もはや先輩が企画したほうが早いのではと疑問に思うほどだったが、まあいい。俺の名前で通ったという事実が大切なのだから。
「坂野はまだ残ってたのか」
戻ってきた課長が、オフィスに入った途端に言った。他の社員は帰り始めている。会議に参加した社員も、俺以外は先に帰ってしまった。
「もう帰ります」
「残業あんますんなよお、上がうるさいんだから」
「はい~すみません」
「荒木も帰れよ。じゃ、また明日」
「お疲れさまです!」
課長に続いてとうとう他の社員もいなくなった。
俺と坂野先輩、そしてもう一人、オフィスの隅にあまり関わりのない先輩が残っている。距離が離れているから、会話しても内容まで聞かれることはないだろう。
上まできっちり締めていたネクタイに指を通し、ボタンを開ける。そろそろオフィスの冷房が切れる時間だ。
(早く帰らないといけないけど……)
なんとなく、まだ先輩と話したい。とはいえ明日も仕事だから飲みには誘えないし、どうしたものか。悩んだあと、先輩のデスクのすぐ隣の椅子に座った。
「そういえばインフルエンサー使うんだよな」
「そっすね。今めちゃくちゃキテるらしいですけど、先輩知ってます?」
企画書を開くと、今話題のインフルエンサーの写真が現れた。活動名はまかにょん。フォロワー三十万人。メイク動画を毎日投稿し、プロモーションを受けたりイベントも積極的に行っている。費用は八十万ほどかかるが、リターンはかなり大きくなると予想できる。
「俺は知らん」
「うわ、おじさんだ」
「お前知ってるのかよ?」
「いや知りませんけど」
「ふざけてんのか」
あーやだ、怖い怖い。冗談言っただけなのに。
実際、この企画書を作るまで存在は知らなかった。インフルエンサーにプロモーションを依頼すると決めたあと、女にこれっぽっちも興味がないのに、歯を食いしばりながら関連動画を漁った。
どうやら若年層の男女に支持されているらしい。今回の企画にぴったりだった。
女性受けがいいのは、メイクやファッションに関することを発信しているからだろう。しかし男からの人気もあるのはなぜだ。顔が可愛いおかげか?
「なんでこの人、男の支持も得てるんすかね」
「あー、なんでだろうな。胸じゃん?」
先輩が人差し指の爪で写真を叩く。それがちょうど、ボインという効果音が相応しいほど見事な形をした乳に当たって、単純ながら苛ついた。
「触んないでください」
「はあ? なんだよ子どもか」
やっぱストレートの男は、女の胸しか見てない。人気=胸という答えが出るということは、どうせ先輩も巨乳が好きなのだ。
「坂野さんも巨乳派なんすか」
「お、俺?」
「そっすか~ありきたりでつまんないですね。胸なんてただの脂肪なのに。これだから男は」
「まだ何も言ってねぇだろうが!」
「聞かなくてもわかるっすよ。男ってゲイ以外は全員、女の乳が大好きなんで」
「お前の偏見やばすぎるって」
どいつもこいつも、ストレートの男はみんなそうだ。同性のおっぱいにも乳首はあるし、育てたら感度も良くなると言うのに。
「男のおっぱいは興味ないですか?」
「ぶっ」
先輩が飲みかけの水を口から噴き出した。咄嗟に手で押さえたようだが、濡れてしまっている。
仕方ないからティッシュを何枚か渡してあげた。
ごほごほと咳き込んだあと、慌ただしく目を泳がせている様子を見るに、ゲイネタを挟まれて動揺したのだろう。
「な、な」
「男のおっぱいも魅力が詰まってるって知ってます?」
「いや、お、おっぱいてお前……てか聞こえるだろ!」
「聞こえないっすよ。こんな離れてるのに」
先輩にゲイバレした日から、そういうことに関して吹っ切れてしまった。今までこの会社でカムアウトできていなかっただけに、事情を知ってる人がいると、つい話したい衝動に駆られる。
「乳首はちょっと女の人と形状が違いますけど、男でも毎日触り続けたらびんびんに立つんすよ」
「だ、黙れもう喋るな!」
「でも先輩が巨乳派って言うから……男のおっぱいも良いってこと伝えたくて」
「俺そもそも巨乳……派とか言ってねぇし」
「え、じゃあ貧乳派?」
「だからなんでどっちかなんだよ! 俺は普通」
「じゃあ先輩のおっぱいはどっちですか」
「どっ……は!?」
坂野先輩は体のラインが細いが、そこそこ筋肉はついている。しなやかで綺麗な筋肉だから、太って見えない。そういう体型の男は胸が小さい傾向にある。けど、もし胸筋を意識して鍛えていたら、ワンチャン俺好みのおっぱいを持ってる可能性も無くはない。
シャツの上から見えないだろうか。目を細めて見ていたら、突然先輩が両手で胸を覆った。
「み、みるなよ勝手に! セクハラだぞ」
「そっか、先輩はやっぱり俺に消えてほしいんだ。ゲイなんかキモいっすもんね」
「いやそんなこと言ってないだろ」
「じゃあ見ていいですか?」
「なにがじゃあだ。理由になってねぇよ──おい、手離せって!」
胸を隠していた手を掴んでずらし、目を凝らしてよく見てみる。シャツの中にインナーは着ていない……ということは、乳首が見えるはず。
「ち、ちょっ……竜聖、やめ……」
薄っすら桜色のそれが見えた。いや、正確には、さっきまで見えなかったのに、”今見えるようになった”。米粒ほどの小さな小さな可愛らしい突起が、ツンとシャツの一部を押し上げて皺を作っている。
つい──手がそこに伸びた。慣れというものは恐ろしい。可愛い突起が目の前にあれば、指先で弾くか摘むように、脳に指示が組み込まれている。
人差し指と親指で、突起をきゅっと摘んだ瞬間。先輩が普段より高い声を出した。
「あっ……!」
大きく捩らせた体を見て、手を出したまま固まる。これはまた、とんでもないことをやらかしてしまった。
「すみませんでした」
「お、おま……謝ればいいと思ってるだろ!」
三白眼に涙が溜まっている。顔を赤くして震えている姿は、申し訳ないけどかなり唆られる。
たったのひとつまみで感じるなんて、こっちの才能あるんじゃないのか?
「まじですみません……お詫びに、俺の乳首にやり返しますか?」
「やり返すかアホッ」
「アホって、先輩それパワハラですよ」
「セクハラしてきたお前が言うな! もう帰る」
先輩はさらに顔を真っ赤にして、ぷりぷり怒りながら歩き出してしまった。慌てて荷物を片付け、後ろを追いかける。
駅まで一緒に帰ろうと思っていたのに。
「先輩、待ってくださいよ。俺の触っていいですから」
「追いかけてくんな!」
「すみませんって~……」
せっかく許してもらえたと思ったら、またこれ。すべてはあの巨乳インフルエンサーのせいだ。

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