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午後の大通りは、目まいがしそうなほど人であふれていた。列をなす自動車が、信号が変わり次第人波を裂いてやろうと待ち構えている。
散歩に出たみたものの、すぐに疲れてしまって、ヒロがもう帰ろうかと思い始めたころだった。
「ヒロくん?」
不意にうしろから声をかけられた。
振り返ると、やせた中年の女性が、戸惑ったような笑みを浮かべていた。
名前を呼んできたのだから知り合いには違いないのだけれど、一瞬、誰だか分からなかった。
「やだ、忘れちゃったの? 酷い、幼馴染の顔を忘れるなんて」
そこでようやくヒロは思い出した。
「あ、ひょっとして、ナオ?」
ナオは、肯定の笑みを浮かべた。
ヒロとナオは、共通の友人であるアツキと三人、学生の時までよく遊んでいた。
社会に出てからもアツキだけとは腐れ縁が続いていたが、ナオとは会うことは少なくなっていった。
特にナオとアツキが結婚してからは、年賀状のやりとりをするぐらいだ。
「ご、ごめん、その、記憶よりやせてたから」
ヒロは、言い訳をするように言った。
痩せていた、というか、やつれた、といった方が正しいくらいのナオの変わりようだった。
ふっくらとしていた頬はやせこけ、髪は染める余裕もないのか、白いものが混じっていた。そしてなにより、思わずみとれてしまうほどの光を抱いていた目が、どこかうつろに濁っている。ヒロは、その目が大好きだったのに。
着ている物はこぎれいなブラウスにスカートだが、なんだかナオは幸せそうには見えなかった。
ヒロは、ナオがデパートの袋を持っているのに気がついた。
「一人で買い物?」
「ええ。義母が亡くなったもので。色々準備が必要で」
初耳だった。何か月前かにアツキと会ったとき、そんな事は言っていなかったのだが。
「そうなんだ。それは、その、ご愁傷様」
そういいながら、ヒロは内心ほっとした。
たしかアツキの母親は、病気がきっかけて歩けなくなり、その介護をナオがしていたはずだ。こう言ってしまっては悪いが、これでナオも少し楽になるのではないだろうか。
「ありがとう。本当に急だったから、驚いちゃって」
ナオはどういう表情を浮かべていいのか分からないというような、困ったような笑顔を浮かべた。
持った紙袋が思いのか、ナオは、何気なく右腕をなでた。そのひょうしに袖が捲れて、細い手首に蒼いアザが見えた。そのそばには、治りかけの黄色いあざも見える。
「それって……」
体のアザのような、プライベートな事を質問するのはマナー違反かも知れない、と思いついたのは聞いてしまった後だった。
気まずそうにナオは顔をそむける。
「ああ、お義母さんは私が気にいらなかったらしくて」
(暴力を……)
足が使えなくても、物を投げたり、殴ったりはできるということか。介護をしてくれる人に、なんでそんなことができるのだろう。
腹の底に、ジワリと怒りが沸いた。
でも、もうナオは辛い思いをしないですむだろう。あとは夫のアツキと一緒に静かに暮らせるはずだ。
「それじゃあ、もう行かないといけないから」
疲れた微笑みを浮かべて、ナオは軽く手を振って去っていった。
それから一か月も立たないころ、スマホの着信画面にナオの名前が表示された。もう何年かぶりのことで、嬉しいというより驚いてしまった。
『あの、もしもし、ヒロ君?』
スマホ越しに聞こえてきたのは、ナオの声ではないが、どこか聞き覚えのある声だった。
『お久しぶり。おばさんよ』
「ああ、ナオのお母さん!」
それはナオの母親のミエさんだった。
(ナオから連絡がくるのも珍しいのに、それがおばさんからだなんて)
「どうも、お久しぶりです」
でも、なんでナオのお母さんが俺の番号を知っているのだろう? ナオに聞いたのだろうか?
『いきなり連絡してごめんなさいね。実は、ナオが行方不明で……そのことで何か知ってることがあれば聞きたいと思って。あなたのお母さんに電話して、番号を教えてもらったの』
「え?」
どくんと心臓が脈打った。
「行方不明って、なんで」
『電話じゃあれだから、一度、会ってお話したいのだけれど』
むしろ、ヒロの方から頼みたいくらいだった。
後日、十何年ぶりにヒロがナオの実家に向かうと、和室に通された。
コチコチと古い時計の音がする。棚の上におかれた日本人形も、紙で作った球も記憶にある通りだった。
卓を挟んで向かい合ったナオの母親トモミは、目を赤くはらしていた。
あいさつもそこそこに、ヒロは口火を切った。
「その、ナ、ナオさんが行方不明になったって、どういうことなんでしょう?」
トモミは、なにか強い衝動を抑えようとするように一度大きく息を吸ってから口を開いた。
「ナオは、自殺したのかも知れないの」
「じ、自殺?」
不穏な言葉にどきりとした。
「〇県の崖から、ナオの靴と遺書が見つかったのよ」
「え?」
(でも、最初は行方不明だと言っていなかったっけ)
ヒロはすっかり混乱してしまった。
自殺だとすると原因は? 義母も亡くなって、これから自由に暮らせるはずだったのではないか?
ナオの母親は、ぐっと唇をかみしめた。その端がわずかに震えている。
やがて歯の間から言葉を絞り出す。
「かわいそうに、ナオは捨てられたのよ」
「捨てられた?」
まるでバカみたいにオウム返しをするしかない。
「ナオは離婚させられたの。アツキは、ずっと前から浮気していたみたいで。自分の母親が亡くなって、介護の必要がなくなったから、もう用済みってわけでしょう。浮気相手と結婚するって」
「そんな……」
(じゃあ、彼女は利用されて捨てられたのか……)
裾からのぞく、ナオの腕のあざ。
ヒロは怒りを抑えるためににグッと拳を握りしめた。
もしそれが本当ならば、十分自殺の理由になる。アツキに殺されたようなものではないか。
「でも、遺体が見つからなくて。そこに落ちたものは、海流で底の方に引き込まれるらしくて」
(酷い……)
だとしたら、まだナオの遺体は冷たい海の中を漂っているのだろうか。
「でもねえ、期待しちゃうのよ。ひょっとしたら、靴だけ置いただけで、生きているんじゃないかって」
なるほど。死体が見つかっていない以上、『自殺』とは言いきれない。だから『行方不明』と表現したのか。
しかし、そう言った彼女自身、自分の言葉を信じていないようだった。
ヒロは、自室のベッドに横たわり明かりを消したが、まったく眠れなかった。暗闇の中、昼間ミエが言った言葉が頭の中をぐるぐると回っている。
『だから、あの男となんて一緒になってほしくなかったのよ』
あのあと、ミエはそう言った。
小さい時から知っているが、ミエのあそこまで悔しそうな顔を見たのは初めてだった。
『今さら言っても仕方ないことだけれど、もしナオがアツキではなくあなたと一緒になってくれればよかったとずっと思ってたの』
(もしも、僕がナオに告白していたら、何かが違っただろうか……)
小さい時から見た目がよかったアツキは、小学校の時から女子に人気だった。
女子たちはアツキの気をひこうと、男子の中で人気のあったシールやシャーペンなどを誕生日でもないのに貢(みつ)いでいた。
ナオからアツキの事を好きだと聞かされたのは、中学生の事だった。
なんでアイツなんだろう、と何度も思った。
その思いは、ナオ自身も同じだったかも知れない。恋心というのは、自由にならないものだから。
チヤホヤされていたせいか、成長するにつれてアツキは女を同じ人間と思っていないような行動を取るようになった。利用して捨てるための生き物、とでも言わんばかり。水子の霊とやらが男につくのなら、高校から大学にかけて、アツキはいくつか背負っているに違いない。
そのころになると、正直ヒロはアツキについていけなくなった。だが、幼馴染ということで、今までだらだらと付き合っていた。腐れ縁というか絶好したくてもできない相手というのはいるものだ。ヒロにとって、アツキがそれだった。
ナオと付き合い始めても、アツキの性格は変わらなかった。
狡猾なのは、ナオやその友達にはそれを巧妙に隠していることだ。
ナオにそれとなく忠告したが、聞き入れてもらえなかった。ナオを傷つけるのが怖くて、きつく言えなかったのもあるだろう。
ナオが結婚してからさりげなく距離を取ろうと思ったのだけれど、なぜかアツキはを気に入っているらしく、しつこく連絡を取ってくる。ヒロもはっきり断ればいいのに、気弱なせいでできなかった。
そして、その結果がこれだ。
(……)
明かりの消えた天井の電気が、闇になれた目で灰色じみた円に見えた。
ヒロはゴソゴソと寝返りをうった。前の道を走るバイクのエンジン音がする。
眠気はまったく訪れない。憤りと、後悔がぐるぐると頭の中を回って止まらない。
(もしも、僕がナオに告白していたら……)
突然スマホが着信音をたて、ぐるぐると回りそうな考えを断ち切った。部屋の隅が明かりで照らされる。
メッセージアプリで連絡をしてきたのは、アツキだった。
反射的にスマホを放り投げたくなったが、それをなんとかこらえる。
『今度の金曜、飲みに行くぞ。時間は十一時な。場所はいつもの所』
いつもの通り、一方的な誘いだった。
(どうせ、こっちのことを使いやすい家来かなんかと思っているのだろう)
しかしそんなことより、ナオが亡くなっているのに何事もなかったような文面に腹が立つ。
しばらく大きな息をして、怒りを抑えると一言『了解』とだけ返信をした。
少なくとも、アツキが次の金曜日に自分の前に現れるのはこれで確定した。
そして、ヒロはあちこちのサイトをあさり歩いた。自分でも、なんの情報を探しているのかわからないまま。
スナックやキャバクラの色とりどりの看板が、ただでさえ狭い道をさらにせまくしている。
アツキは、会った時から上機嫌だった。何軒かハシゴした後には、歌い出しそうなほどにご機嫌だった。
「いやあ、悪いな、付き合ってもらって。ようやくアイツと別れられたから、お祝いだよ」
(何がお祝いだよ……)
その頭をぶん殴ってやったら、どんなに気持ちがいいだろう。
だが、そうする勇気はヒロにはなかった。
それに、ここでそんな事をしたら計画が台なしになる。それに、酔っていてくれたほうがやりやすい。
「おいおい、大丈夫か?」
ふらつくアツキの体を支える。
「ほら、こっちだよ」
心配するフリをして、ヒロはさりげなくアツキを誘導していく。
焼肉店と飲み屋の間に、小さな社(がやしろ)建っていた。
飲み屋街に不釣り合いなそれは、非業の死をとげた女性が祀られていて、よく願いを叶えてくれるらしい。恨みをはらしたい、という願いは特に。
社の前にアツキを座らせる。
「少し座って休んだ方がいいよ」
いかにも「心配しています」という感じでアツキの顔をのぞき込んだ。
「いやあ、悪い悪い」
顔を真っ赤にしたアツキはへらへらと笑いながら言った。
「なんだか、ようやく重荷が降りた感じがしてなあ」
(重荷?)
アツキは勝手に話し始めた。
大体は、ナオの母親に聞いた通りだった。
母親は脳梗塞で倒れ、もう数年間も半分寝たきりの状態だったこと。ナオに介護をさせて、離婚したこと。
そして、知らない情報も一つ教えてくれた。
かなり前から、レイカとかいう女と浮気をしていたと。
「いやあ、これでようやくレイカと同棲できるようになったんだ。もう介護要員も必要ないからなあ。ホントは結婚したいんだけど、ナオはまだ行方不明扱いだから」
その言葉に、怒りで目の前が真っ赤になったようだった。
自分にこれほどの殺意が眠っていたのか。
「い、いい加減にしろよ!」
気付いたら、ヒロはアツキの胸倉を両手でつかむ。
「女を、ナオを喰いモノにしやがって! 報いを受けろ!」
そう、この一言をヒロは言いたかったのだ。この社の前でアツキの天罰を祈りたかった。
我ながら情けない復習方法だ。
珍しくあげた怒声に、アツキは驚いたようだった。
「おいおい、そんなに大声だすなよ。お前らしくねえぞ」
両手首をつかまれる。うまく神経を圧迫されたようで、指に電流が走ったようになり、思わず手を離してしまった。
そのすきに足払いをかけられ、天地が逆になる。
あっという間にヒロは道路に転がされていた。
「でもなあ、喰い物にしたって言ってもなあ。死んじまった者なんて返したくても返せるモンじゃねえし」
アツキはけたたましい笑い声を上げた。
ヒロは、ぐっと拳を握りしめる。
もうアツキの顔を見ていられず、起き上がるとそのまま背をむけて歩き出した。
「なんだよ、つれねえなあ」
背後でアツキの言葉を聞きながら、ヒロは逃げるようにその場を立ち去った。
それから、さすがにヒロはアツキからの連絡を無視することした。そうしていると、そのうちメッセージの着信は少なくなっていった。アツキの事だから、怒り狂って鬼電でもしてくるかと思っていたので、少し意外だった。
このまま縁が切れるかと思った数か月後、急にアツキがヒロの前に立ちはだかった。
会社帰りに家の近くでつかまった所を見ると、ずっと待ち伏せをしていたのだろう。
いきなり現れたことよりも、奴の様子にぎょっとした。
肌は土気色で、目にうっすらと涙が浮かんでいる。まるで病人だ。短期間でこれほど人は痩せるのか、というくらい頬がやつれている。
ヘッドライトと街灯の薄暗い光の下で見ると、余計に不気味に見えた。
「なんだよ、一体!」
「た、助けてくれ!」
説明もしないで、アツキはいきなり助けを求めてきた。
「『助けて』って、何があったんだよ」
アツキに何が起こったのか好奇心もあり、ヒロはそう聞いた。
「呪われた! 俺は、呪われちまったんだ!」
「呪われた?」
思わずニヤリとしそうになるのをなんとかこらえた。
「最近、変なことがあって……」
「それで、呪いって?」
誰にも聞かれる恐れがなくなったのを見計らって、ヒロは聞いた。
「髪の毛…… よく食べ物に髪の毛が入っていて……」
消え入りそうな声でアツキが言った。
「え?」
「最初は、レイカのつくる弁当だったんだ」
レイカとは、ナオがいなくなってからすぐに同棲し始めたと聞いた。
その日、初めてレイカがお弁当を作ってくれて、アツキはご機嫌だったそうだ。
大喜びでタコ型に切られたウィンナーを口に放り込み、、噛み締めた時だった。歯の間に、なにか糸のようなものが挟まったという。
不快さに顔をしかめ、指を口の中に突っ込む。
引きずり出したのは、長い髪の毛だった。
「その時は、『レイカもうっかりだなあ』って微笑ましく思ってたんだけど」
けれど、異変はそれだけではなかったという。
夕飯のチキンの照り焼きを食べているときも、何かがノドに触ったそうだ。咳をしながら、口までせりあがってきたのはやはり髪の毛だった。今度は、一本ではなく数本。
(なんだよ。新しい恋人もう嫌がらせをされているのか)
いい気味だ、と思った。
普通に作っていれば、そんなに頻繁に毛が入るわけがない。
大方、釣った魚になんとやらでさっそく女性を雑に扱って恨みを買っているのだろう。アツキのことだ、ほかにも何股かかけていてそれがバレているのかも知れない。
願った天罰を叶って、大きな不幸でも起こったのかと思ったら、大したことがない。内心がっかりした。
「たまたま、入っただけだろ」
「違う! レイカの髪の毛は、明るい茶色だ。けど、出てきた髪の毛は真っ黒だった」
アツキを押しのけて、立ち去ろうとするヒロの肩をつかみ、なおも続ける。
「レイカの作った料理だけじゃない! スーパーの弁当にも、コンビニのおにぎりにも……」
言葉を切り、アツキはゴホゴホとむせはじめる。
「お、おい……」
心配したわけではないが、異常な事態にヒロはとまどった。
アツキは顔をしかめながら、指を自分の口に突っ込み始める。
引き出された指には、黒い髪がつままれていた。それも、一本や二本ではない。一つまみ分の、細い束になっている。
「ま、まただ」
アツキはは指についた髪を服でぬぐう。
「また髪の毛……ゲホ、ゲホ!」
口を押え、再びむせ始める。
さっきの咳よりかなりひどく、ノドからぜいぜいと壊れた笛のような音が漏れていた。
通行人たちも異様さに気がつき、ちらちらとこちらに視線を向けてくる。
アツキの口から黒い塊が流れ出て、アスファルトの上にべしゃりと落ちる。
一つかみある髪のかたまりには、薄い膜のように頭皮がついていた。
吐しゃ物と胃液の、すえた臭いが立ち込めた。
吐き出された物をみたのだろう、女性の悲鳴と、走って逃げる足音。
こんどは白いピンポン玉ほどの球体が、べしゃりと音を転がる。濁った瞳の色のせいうか、本物に違いない眼球は、ハロウィンの悪趣味なゼリー菓子に見えた。
「あ……あ……」
自分で吐き出したものへの恐怖で、アツキはぶるぶると震えていた。その唇からたれた唾液が長く糸を引いている。
いったい、何なんだ、これは。
考えてたどり着いた答えはあまりに単純で、ヒロは笑い声をあげた。
あの、名前も知らない小さな社。
そこでヒロは『アツキに報いがあるように』と願った。
そしてアツキはこう言った。
『喰い物にしたって言ってもなあ。死んじまった者なんて返したくても返せるモンじゃねえし』
神は、二つの願いを同時に叶えたのだ。
返したくても返せない、ナオの体をアツキの口から返せるようにしてくれた。そしてそれはそのまま、アツキの報いになるだろう。
ヒロは、もう一度地面に視線を戻した。
あれは、ナオの瞳だ。大好きなナオの瞳。
「安心していいよ、アツキ」
ヒロはそっとその目を拾い上げた。これから、ナオのカケラを集めよう。トモミに告げるかどうかはよく考えないといけない。
「ナオの体を吐き終えれば終るはずだから」
もっとも、人が人の腕や脚を吐き出して、体が耐えられるかは知らないけれど。それとも、吐けるくらいに細切れになって出てくるのだろうか。

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