マヴェロの森の死神

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マヴェロの森の死神

 その日は雲の流れが速かった。 「今日は荒れそうだな。早めに帰るか」  そう独り言ちたスーランは、森の麓にあるパン屋に寄って帰ろうと愛馬ならぬ愛鹿に跨りサリバン邸を後にする。  薄らと水を零した様な空を、霞の様な雲が慌てて逃げ去る様に流れていた。    ドーン王国エヴレカ区。  少し前まではモリガン区と呼ばれたこの土地は、一年の殆どが雪に覆われている辺境の地であり、隣国との国境を有する地でもある。  五年前のドラコン教解体と隣国ラカンとの和平交渉を期にサリバン公爵領となり、亡国“()の国”の女王エヴレカの名を冠し、今やサリバン公爵は北の王とまで言われている。  “医薬院”と言う大きな学び舎が作られ、閉鎖的だった雪国もこの五年で大分変貌を遂げた。  カラン、と鳴るカウベルの音に恰幅の良いパン屋の女将が振り返る。  扉を開けた瞬間、温められた部屋の空気に鼻先が溶けた。 「スーラン、今日はもう終いかい?」 「おん。ご主人様が休暇に入ったから、俺もしばらく休み」 「そうかい。オルタナ様も働き過ぎだからちょっとは休んで貰わないとね」  そう言った女将は「今日は黄金麦のパンがおすすめだよ」と早速自慢のパンを勧めて来る。 「良いねぇ。燻製肉挟んでチーズ焼いちゃおっかな」 「雪樽で一年寝かせた黄金麦さ。甘くて香ばしい、いい匂いするだろ?」 「女将、俺は匂い分かんねぇよ」 「あぁ、そうだったね。こんなに旨そうな匂いが分かんないなんて、人生半分は損してるよ」 「良いんだよ、味は分かるから! そのお勧めのヤツ、三つくれ」 「はいよ。オマケも付けとくよ。試作で作ったマカベリーのジャムパンだ」 「へぇ、マカベリーってジャムに出来んだ?」  硬くて黒いマカベリーは団栗より大きく削って香辛料にする以外、他で使われているのを見た事がない。  削った時に出る汁が少し酸味がある為、塩付けに入れたり肉の臭み消しなどにも使われる。  女将は医薬院の子供達が育てたマカベリーを持って来てくれたのだと嬉しそうに言う。 「いっぱいあったから、作ってみたんだよ」 「わりぃな、あんがと」 「そう言えば、今朝、院生が森に入って行くのを見たんだがね」 「はぁ? 一人で? って言うか、見間違いじゃねぇの? 許可なくマヴェロの森に入れねぇだろ」 「そうなんだがね、狭間色のローブが見えたから間違いないと思うよ」  狭間色とは青空と夜空の狭間の色で、医薬院の学徒に配られる特別なローブの色だ。  亡国の女王の子であるオルタナが復活させた夜の国の伝統色のそれは、エヴレカ区の色として認知されつつある。  それにマヴェロの森は夜の国の女王エヴレカが愛した“夜葡萄”の再生地だ。  院生だけではなく、その森に入るには領主の許可証が必要なのだ。 「死神出たって警告も出てる。よっぽどのバカじゃなけりゃ入らねぇだろ」 「今日は氷兎(ひと)が鳴いてたから、昼から荒れそうだしねぇ。でも、入ったっきり戻って来てないんだよ」 「マジかよぉ……なぁんで俺に言うんだよぉ……」  スーランはパン屋のカウンターに突っ伏して項垂れる。  昔の自分なら聞いた所でオルタナに関係なければ無視出来たし、家族や仲間と認識している者以外がどうなろうと良かった。  だが今は違う。  多分これで行動を起こさず森で学徒が死んだ、なんて事になれば師匠であるオブライアンからの制裁は免れないし、知っていたのに何もしなかったとオルタナに知れたら「何故?」と糾弾されるに違いない。  そして更にサリバン公爵からお小言を貰う羽目になる。  まっすぐ家に帰れば良かった、と思いつつ外へと視線を投げた。  少し風が出て来ている。  降り積もった雪が煙の様に巻き上げられる渦を巻く風が、質素なパン屋の窓をガタガタと鳴らした。

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