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転校生
今でも時折夢に見る。血まみれになって笑うあいつの姿。怖いくらいに青い空を、直視することもできないで、いつもそこで目が覚める。
『逃避行~12の夏~』
あいつは、いつも夏の匂いがした。小学校六年生の七月。一学期ももう終わろうという頃。三嶋碧は、迅のクラスへ転校してきた。
「みんな、仲良くするように。分からないことも多いだろうから、いろいろ教えてやってくれ。席は寺門の隣な」
今朝になって突然現れた空席の理由を知った。碧は、先生の指示通り、迅の隣の席に座った。「よろしく」と迅が小声で言えば、「うん」と小さく頷いた。
転校生なんて今時めずらしくもないだろうが、小学生にとってみれば一大事件である。地球の裏側では今日も飢えて死ぬ子供がいるとか、戦争で何百人が死んだとか、隣国がミサイルを発射したとか、株価の暴落やら物価の上昇やら、そんなことよりも、いきなり現れた転校生の方が、ずっとずっと重要なのだった。
当然、クラスの話題は、しばらくの間、この転校生のことで持ち切りだった。転校生の顔を一目見ようと、隣のクラスからも人が押し寄せた。碧のまとう、どこか都会的な雰囲気に、女子たちは結構騒いでいた。
しかし、誰かが言った「どうして転校してきたの」という問いに、「母親が自殺したから」と碧が答えたことで、雰囲気は一変する。いきなりセンシティブな話題に触れてしまったことで、みな動揺したのだろう。それ以上突っ込んだことを聞ける猛者はおらず、そのうち、誰も碧のことを話題にしなくなった。
季節は移り、秋になった。赤く色づいた木の葉が、木枯らしに吹かれて舞い落ちる。先生に頼まれて、迅と碧は校舎裏の掃き掃除をしていた。掃いても掃いても、カエデやイチョウが次々に降ってくる。
「こんなの、いくらやったって終わんねぇよ~」
「だな」
「ったく、やってらんねぇ~」
などと、文句をたらたら垂れ流していた時だ。落ち葉の絨毯に隠されて見えなかった小さな段差に、迅は思い切り躓いた。どうにか堪えて身を翻したはいいものの、結局重力には勝てず、落ち葉の山にダイブした。せっせと掃き集めていたカエデやイチョウが、勢いよく舞い上がる。
まるで、下から強風が吹き上げたように、青い空にひらひら舞った。太陽の光が、金や紅に輝いて見えた。
驚いて目を丸くしていた碧だが、「いたた」と迅が木の葉まみれになりながら起き上がると、思わずといった風に笑った。くす、と微かに口元を緩めて、しかしすぐにいつもの真顔に戻った。
初めて、碧の笑うところを見た気がした。こんな風に笑うんだ、と思った。もっと見てみたいとも思った。
「なんだよ。じっと見て」
碧は、少し気まずそうに口元を隠す。「何でもねぇよ」と迅が言えば、そっと手を差し伸べてくる。「どこかぶったんじゃないのか」と心配そうに言うので、「全然だいじょぶ。ケツから行ったし」と迅が答えると、「それは本当に大丈夫なのか?」とやはり心配そうに言う。
一旦休憩することにした。何の手入れもされていない、小さな花壇に腰掛ける。足元には落ち葉の絨毯が広がっている。「あのさ」と迅は切り出した。
「前に、母ちゃんが自殺したって言ってたけどさ、あれ、マジなの」
なぜ今更そんな話を、という顔をしたが、碧は答える。
「マジだぜ」
「マジかぁ」
「みんなの注目ほしさに嘘ついた、イタい奴だと思ってたのか」
「いやいや、全然? あん時のお前、普通にマジっぽかったし、だからみんなビビッたんだろ。ふざけてそういうこと言う奴じゃないってのも、みんなもう分かってるだろうし」
「そうかよ」
「そんで、今はおじさんと二人暮らしってわけか」
「……まぁ、そうだな。他に頼れる親戚がいなかった」
それじゃあ、その顔の傷は、おじさんにやられたんだ。とは、まだ聞けなかった。
「なぁ、今日の放課後、ひま?」
あまり遅くならないようにという条件付きで、放課後二人で遊びに出かけた。もちろん、初めてのことだった。
迅が碧を連れていったのは、町外れにある神社だった。苔生した石段を上り、枯草や、絡み付く蔓を掻き分けて、ようやく辿り着く。ほとんど手入れもされていない、荒れ放題の古びた稲荷神社だ。ぴゅう、と軽く口笛を吹けば、ガサガサと茂みを揺らして、猫が姿を現した。
「かわいいだろ。元々うちで飼ってた猫。ミーコっつーの」
ミーコは迅の足元にすり寄って甘える。黒い毛と白い毛と、鮮やかなオレンジ色の毛が絶妙なバランスでミックスしている、三毛猫らしい三毛猫だ。きらりと光る金色の目も、実に猫らしい。
迅がランドセルを下ろすと、ミーコは膝に飛び乗って甘えた。餌をもらえると分かっているのだ。ランドセルに隠してある煮干しの徳用袋から、一掴み取り出して与えると、ミーコはにゃあにゃあ鳴いてがっついた。
「お前もやる?」
碧の手にも、煮干しを一掴み置いてみる。ミーコは、特に警戒する様子もなく、迅の手にある煮干しと交互にそれを食べた。
「……猫きらいだった?」
猫が手から餌を食べているのに、碧が目立ったリアクションをしないので、迅は少し不安になって尋ねた。「いや」と碧は首を振る。
「こういうの、初めてで」
「野良猫とかも?」
「うん。……かわいい」
ふわっ、と蕾が開くように、碧は笑った。こいつの笑顔を見るのは二回目だ。猫を見つめる眼差しが柔らかくて、迅も嬉しい気持ちになった。
「お前、ここで一人で世話してるのかよ」
ミーコを膝の上に乗せて、碧は言う。
「まぁな。一応俺の猫だったし」
「飼えなくなったのか」
「まぁねぇ。あ、そだ。これ見てよ」
迅は社殿の格子戸を開け、仕舞ってあった段ボール箱を引っ張り出した。神社の社殿を勝手に物置として使うなど、不敬にも程があるが、扉の南京錠は元々壊れていたし、雨風を凌ぐのには最も適した場所なのだった。
箱の中身は、ミーコが暖を取るための毛布や、お気に入りのおもちゃなどだ。それらを取り出した後、箱の底に残るのは、銀色に光るスチール缶。元は煎餅が入っていた缶である。
「なんだよ、それ」
「俺の大事な物入れ」
缶の中身は、それこそ、男子小学生にとっては宝の山だ。トレーディングカードゲームのレアカードや、アニメキャラクターのメダル、食玩のフィギュアやシール、もちろん、携帯ゲーム機まで入っている。
「遊べんの」
「いや、電池切れててムリ」
「なんだそりゃ」
「家に置いとくと、捨てられたり売られたりするからさぁ。ここに避難させてんだよね」
迅はランドセルの底をさらい、家からこっそり持ってきていたスーパーボールとビー玉を、新たに宝箱に追加した。
「そんなもんまで?」
「一応、念には念をってやつ? お前、なんかほしいもんある?」
「何かくれるのかよ」
「まぁ、あれよ。秘密のおすそ分け的な? 俺、ここでミーコ世話してんの、親にも言ってないからさ。母ちゃんに、遠くに捨ててこいって言われたのに、内緒で飼ってんの」
「ふぅん。口止め料にゲーム機を?」
「げぇっ!? ゲームはちょっと……」
「冗談だ。それに、どうせ動かねぇんだろ」
「別に壊れてるわけじゃねぇよ」
「そうだな。この中から選ぶなら、これがいい」
碧は、迷わずにビー玉を手に取った。一般的なサイズよりも一回り大きいそれを、太陽に透かして眺める。
「そんなんでいいの」
「これも一応大事なもんなんじゃねぇのかよ」
「そりゃあな? ちょっとでかいし、色もきれいだし」
「カードゲームとか、うちに置いといても、捨てられたり売られたりしそうだしな」
碧はビー玉を握りしめ、大事そうにポケットに仕舞った。
「ユーモアのわからんおじさんだな」
「その言葉、そっくりそのまま返すぜ」
さて、と碧は立ち上がる。ミーコをぎゅうっと抱きしめて、においを嗅いだ。「くさくない」と笑い、ランドセルを背負う。
「帰んの」
「ああ。あんまり遅いと……」
「明日も来れば」
「来られたらな」
「んで、できれば、猫の餌になりそうなもん、持ってきてくんない? 俺の小遣いじゃ、徳用煮干しが限界でさ。ミーコ、腹空かしてるみたいで」
「……考えとく」
その日はこれで別れたが、以降、この廃神社が、二人の秘密の遊び場になった。

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