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沖縄旅行二日目──イサキは『神の手雲』の画像付きチェーンメールを受け取った。彼は転職先が決まり、現職の有休消化を使った一週間の一人旅真っ最中だった。転職を前にリフレッシュしたかったのだ。ただ本当の目的は別にある。一年程前、急な転勤がきっかけで別れた彼女への未練を、沖縄の海に葬り去るための傷心旅行も兼ねていた。彼女はもはや、雲の上のような存在になっていたのだが、いまだに痼りのようなものが残っていたのだ。
季節は真夏。晴れ渡る青空の下、ビーチでエメラルドグリーンの海を眺めながらニライカナイに思いを馳せていた時、スマホの通知が鳴った。イサキは突然LINEにチェーンメールが送られてきたから、大袈裟かもしれないけど運命みたいなものを感じてしまう。
送り主はその元カノ、ミサキだった。未練を捨てようと思ってこの地にやって来たというのに、チェーンメールとはいえ、まだ気にかけていてくれていたことが素直に嬉しかった。別れてから一度も連絡がなかったから、雲間から光が差したような気がしたのだ。
『転職して勤務地が関西になるって風のうわさで聞いた。また関西に戻って来るなら、今度会おうよ』
LINEにはそんな言葉が添えられていた。イサキは関西の実家から通える勤務地と、転勤のない地域限定職を希望し、希望通りに転職を叶えた。ミサキとよりを戻せるなんて毛頭思っていなかったが、原点回帰、地元で仕切り直しをしたかったのだ。彼女との別れのきっかけとなった転勤については悪い思い出しかなく、とにかく煩わしかった。
このチェーンメールを受け取った人には幸せが訪れるらしい。チェーンメールなので、受け取った人はまた別の何人かにメールを転送するのが通例だ。"不幸の手紙"とは真逆の意味合いがあるので当然ウエルカムなのだが、中にはフィッシングサイトに誘導するケースもあるらしく、不用意に転送することは憚られた。現代ではデジタルリテラシーのひとつらしい。イサキはリテラシーに乗っ取って誰にも転送しないことに決めた。
受け取った人に幸せが訪れると言うが、イサキは既に幸運を受け取っている。ミサキから再会のお誘いを受けているのだ。彼にとってそれは、画像より何倍も価値のあることだった。
この沖縄旅行の目的(=傷心旅行)は大きく変わろうとしていた。
新しい仕事の都合もあるので、関西で会えそうな候補日を三日ほど見繕って返信する。ビーチで沖縄の海に黄昏れながら、ミサキの返信を待った。それでもその日はいつまで経っても返信はなく、既読スルーのままだった。
きっと色々と忙しいんだろう…
やっと返事があったのは旅行五日目のこと。
『遅くなってごめん。神の手雲のチェーンメールちゃんと誰かに転送した?』
『いや、送ってないけど』
『え?なんで。誰かに送らないと逆に悪いことが起きるってうわさがあるんだよ。受け取ってから二日以内に送付しないといけないのに』
『早く言ってよ(笑)でもどうせ迷信だろ。そんなことより関西でいつ会えそう?』
二人は九月初旬に再会することになり、その時点でイサキの沖縄旅行は完全に傷心旅行ではなくなった。
▼
──迎えた旅行最終日。その日は初めてのダイビング体験をすることになっていた。場所は沖縄でも指折りの聖地で、ニライカナイに最も近い言われる本島近くの離島だった。
イサキはダイビングの受付に向かう道すがら、ビーチにふらっと立ち寄った。彼の他には誰もいなく、貸し切り状態のプライベートビーチだった。そこでふと、足もとに一際輝く石が目に入った。緑がかった色合いで宝石のように輝いている。おまけにハート型をしていたものだから、思わず彼女に見せたくなったのだ──イサキはその石を大事そうに鞄に仕舞うと、ビーチを離れ受付に向かった。
受付を済ませ、レンタル用のダイビングスーツを装着すると、いよいよ船に乗り込み沖へ向けて出航する。操縦士の他に案内人が一人いて、ちょび髭を生やし真っ黒に日焼けしたダンディーな沖縄人だった。年齢は五十代くらいだろうか。お客はイサキの他に学生のカップルが一組だけだ。イサキは学生時代にミサキと沖縄旅行したことを思い出し、少し寂しくなった。
彼女が隣にいてくれたらな…
この一週間の旅行はずっと天候に恵まれていた。特にこの日は申し分無い青天で、船上から海を見下ろすと、透明度抜群の青を太陽光が貫いて、海の底まではっきりと見通せる程だった。絶好のダイビング日和──雲ひとつないあまりに完璧な青空に、イサキはどこか夢の中に迷い込んだような気がするくらいだった。
出航して十五分程でダイビングスポットに到着すると、案内人がダイビングの注意事項を説明し始める。
するとちょうどそのタイミングで、急に雲行きが怪しくなってきた。とんでもなく大きな積乱雲が、ついさっきまでくっきりと見渡せていた水平線をうねうねと覆い始め、あっという間に天上へと広がっていく。そして広がり行く雲の先端がみるみる内に大きな手になって…
「神の手雲だ!」
突然案内人が驚愕の声で怒鳴った。
「誰か島にあった石を拾ったヤツはいないか?」
神妙な表情でそう尋ねられ、イサキたち三人は面食らってしまう。
「受付する前に、近くのビーチでこれを…」
イサキは鞄からハート型の石を取り出すと、おずおずと案内人に見せた。
「ダメだ!この島では島民でさえも石を持ち帰ることは禁じられてるんだ。ニライカナイの怒りに触れてしまったのかもしれない…俺も初めて見る神の手雲だが、過去にこういうことが何度かあったらしい」
やばい…
船上の四人誰もがそう思ったのも束の間、神の手は天空で大きく振り上げると、海面を激しくぶった。過去に経験したこともないような風圧が船を直撃し、死に物狂いで船にしがみつく四人。なんとか転覆は免れたが、程なく数十メートル級の津波が押し寄せ万事休す。船は抵抗の余地なく大波にのまれ転覆してしまう。
イサキが我に返った頃にはもう、激しい渦に巻き込まれ、瞬く間に海中深くへとのみ込まれていく。混濁する意識の中で思った。
あのチェーンメールは迷信じゃなかったのか…
せっかくミサキと再会できるはずだったのに、もう二度と会えないのか…
▼
当初は元カノへの未練を海に葬り去るつもりだったイサキ…、まさかイサキ自身が海の藻屑と化すことになろうとは、当の本人は全く予期していなかったことだろう。
結局彼女はまた─今度こそ本当の意味で─雲の上の存在になってしまった。
いや、そうではない…逆だ。イサキ自身が雲の上の存在になってしまったのだ。再会を望んだミサキこそ、彼のことを想って悲しみに打ち拉がれることになるだろう。なぜあんなチェーンメールを送ってしまったのだろうと、自分自身を責めるかもしれない。
幸と不幸が隣り合わせにあることを、神の手雲はまざまざと突きつけたのだ。
《完》

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