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◇◇◇
それは、五時限目に入った時のこと。
数学Bの授業の最中に起きた出来事であった。
「────だから、ここは数学的帰納法を利用します。数学的帰納法は、証明の方法の一つで────」
黒板の前で、先生が何やら言っている。
ああ、眠い。
昼休み後の数Bなんて、拷問も同然。生き地獄だ。
前のテストの点数がひどかったから、ちゃんと聞いとかなきゃいけないんだけど……。
俺は重いまぶたを何とかこじ開けながら、シャーペンを走らせる。
手を動かしてもなお、やっぱり眠い。今すぐ突っ伏して夢の世界に行きたくなる。
夢の世界に行くのは修学旅行の時だけで十分だ、と意味のわからない理論で心の声を押し殺す。少しでも眠気が晴れればと、右に眼球を動かした。
その先には、一人の女子生徒が椅子に座って授業を受けていた。この催眠ガスが充満してるんじゃないかと疑うような教室の中でぱっちと目を開けて、黒板とノートを見比べながら何かを書き綴っている。
まだ幼さの残る、しかし真剣な顔に、どうしようもなく胸が高鳴った。
俺は、隣の女子生徒に恋をしている。
いつからだったろうか、彼女から目を離せなくなったのは。
……きっと、ここの高校に入学して初めて顔を見た時からずっとだ。このクラスにいて、彼女のことが好きじゃなかった瞬間なんてない気がするから。
俺の初恋を奪ったその子は、名前を紫野さんという。
雅な名前だ、まるで紫の上みたい。って言っても、俺は源氏物語なんか読んだことないんだけど。
高校生なのにまだあどけない顔も、小動物みたいな仕草も、自分よりずっと小さな背も、まるい体つきも。大人しいところも、かわいい笑顔も、頭がいいところも。
全部大好き。
……でも、俺は臆病だから、彼女と話せたことはほとんどない。情けないことだ。体を張って好きな子を守るどころか、声をかける勇気すら俺にはない。
いつ誰に取られるかも、わからないのに。
ああ。
君の光源氏になれたら、俺はどれだけ幸せだろうか?
「────」
声が聞こえる。
うるさいなあ。
「────み!」
まだ言ってる。
そういえば俺、何してたんだっけ?
「────村上!」
「はいっ!」
俺はばちりと目を開いた。みみずのような字の踊るルーズリーフが目に飛び込んでくる。
忘れてた。今は授業中だった。どうやら知らない間に寝てしまっていたらしい。
「……おはよう」
数学の教師の呆れたような声が聞こえた。くすくす、と笑い声が響く。
なんて醜態だ。好きな子の隣で寝こけるなんて。俺は過去の自分を殴りたい気分で、顔を真っ赤にしてルーズリーフを見つめた。
────その時。
「……あの。シャーペン、落としたよ」
隣から、ささやくような声がした。
まるで飼い主の声を聞いた犬のようにぴくりと体が跳ねた。紫野さんだ。
拾ってくれたんだ。その優しさに感謝半分、申し訳なさ半分でいたたまれなくなりながら、顔を上げて隣を向く。
────いない。
俺は呆気に取られた。
いない。椅子の上に、紫野さんがいない。え、どういうこと……。
と。
「こっち、こっち」
下から紫野さんの声がした。
俺はそのまま、視線をスライドさせる。椅子の上から、床の上に。
「はい、どうぞ」
俺のシャーペンを握ってこちらに差し出す────ちいさな、リスのぬいぐるみがあった。

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