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私の名前は、カスミ。
あの薄暗い部屋で、私はいつも同じ場所にいた。
いたというより、置かれていた、と言うべきだろう。
私の足は床に根を張ったように動かず、首も、腕も、指先一本すら思うままにならなかった。
部屋には私以外にも、たくさんの仲間がいた。
みな美しく、みな静寂に包まれていた。
金色の髪を持つ者、青い瞳を湛える者、薔薇色の唇を結ぶ者。
それぞれが異なる表情を浮かべながら、しかしみな等しく動かない。
私たちは人形だった──
窓の向こうには、別の世界があるのだと知っていた。
時折差し込む陽光が、カーテンの隙間から細い線となって部屋を切り裂いた。
その光の中で踊る塵埃を見つめながら想像した。
外には空があり、雲があり、風がある。
鳥が鳴き、花が咲き、人々が歩いている。
そんな世界を、この目で見てみたい。
この足で歩いてみたい。
その願いは、日を追うごとに切実になっていった。
朝が来て、夕暮れが来て、そして夜が深くなると、心の奥底で何かが疼いた。それは痛みにも似た熱情だった。
外へ、外へと私を駆り立てる衝動。
しかし私の身体は、相変わらず微動だにしない。
時折、部屋の主がやって来た。
中年の男で、私たちを見る目には奇妙な愛情が宿っていた。
彼は私たちの髪を撫で、頬に触れ、時には新しい服を着せてくれた。
そして私たちの位置を変えたり、角度を調整したり、まるで生きた展示品のように扱った。
「美しい」
彼はよくそう呟いた。
私に向かって、他の仲間たちに向かって。
その声はどこか空虚であり、褒め言葉なのに、心には響かなかった。
男が去ると、部屋は再び静寂に包まれる。
しかし、その静寂の中で声を聞いた。
いや、聞こえてくる気がした。
それは────仲間たちの声だった。
「気持ち悪い」
「触らないでほしい」
「もううんざり」
「いつまで続くの」
彼女たちの口は動かない。表情も変わらない。
だって、私たちは人形なのだから。
しかし、私の頭の中にはみんなの嘆きが響いていた。
憤りと嫌悪が部屋を満たしていくのを感じた。
私も試しに声を出してみた。
──出せなかった。
「人間のように自由に歩き回りたい」
こんなことを考えている私は、もはや人形とはいえないのではないか。
そう、私は人形なんかじゃない。だから、動けるはずだし、喋れるはず。そんなことばかりを考えていた。
ある日、男は私の前にしゃがみ込み、じっと見つめて言った。
「なんてかわいい人形なんだ」
その瞬間、私の胸の奥で何かが激しく波打った。
嫌だ! 嫌だ!
そう叫びたくなった。
人形なんて嫌だ!
人間みたいに喋ったり歩いたりしたい!
この部屋の外を見てみたい!
しかし、声は出ない。
私にできることは、その思いを瞳に込めて男を見つめ返すことだけだった。
男には、私の心の叫びが聞こえているのだろうか。
いや、男は気づいていない。
私の魂の渇望など、彼に届くはずもない。
なんという絶望。なんという孤独。
もしも私が人形ではなく、人間だったらどんなによかったことか。
自由に歩き、自由に語り、自由に選択できたであろうに。この呪縛から逃れることができるのに──
月日は流れた。
私の願望は募るばかりで、絶望は深くなるばかりだった。
そんなある日のこと。部屋に足音が響いた。
しかし、それはいつもの男の足音ではなかった。
複数の重い靴音。
ドアが勢いよく開かれ、見知らぬ男たちが入ってきた。
彼らの表情は厳しく、動きは迅速だった。
そして、信じられないことが起こった。
男たちの一人が私に近づき、何かを私の身体に施した。
その瞬間、長い間凍りついていた私の四肢に、温かい感覚が戻ってきた。
指先が動く。
首が回る。
足が床を感じる。
私は──動けるようになった。
部屋の主だった男は、別の男たちに取り押さえられ、どこかへ連れて行かれた。
私もまた、部屋から出ることができた。
外は、想像していたよりもまぶしく、騒々しく、そして美しかった。
私は歩くことができた。
そして、人々が私に話しかけてきた。
「大丈夫ですか」
「怖い思いをしましたね」
「もう安全です」
私は息を吸ったあと、喉を震わせてみた。
「……あ」
声が出た。私は人間と会話することができた。
彼らから聞かされた真実は、世界を根底から覆した。
私は人形ではなかった。
人間だったのだ。
あの男によって拉致され、監禁され、あの薄暗い部屋に閉じ込められていたという。
そして、長い間「おまえは人形だ」と言われ続け、記憶は操作され、認識は歪められていったのだった。
* * *
私は今、自由な空の下にいる。
風を感じ、光を浴び、自分の意志で歩いている。
けれども、ふとした瞬間に胸を締めつける疑念が芽生える。
あのとき、部屋にいた他の人形たちは、「人形」だったのか、「人間」だったのか。
今となってはよくわからない。
そして、本当に私は「人間」なのだろうか。
あの部屋にいた仲間たちが、もしもただの「人形」だったとしたら──私だけが「人間」であったという証拠は、どこにあるのだろう。
指先を見つめると、糸のような筋が浮かび上がり、一瞬だけ縫い目に見えた。
喉から絞り出した声も、耳には人間の言葉のように響くが、本当にそうなのか。
私は──カスミ。
そう名乗ることができる存在。
だが、その名を発するたびに、心の奥で小さな囁きが聞こえた。
──おまえは人形だ。
その声を振り払うように空を見上げる。
雲が流れ、鳥が舞う。
私は自由になったはず。
だがその自由すら、誰かに仕組まれた舞台の上で与えられた幻ではないのか。
笑みを浮かべようとしても、頬がうまく動かない。
背筋に冷たいものが走った。
私は本当に──人間なのだろうか。
< 了 >

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