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本棚に追加第一章
「茜お嬢様は、そのような事をなさらなくともよろしいのです。どうか、おやめください」
いつもそう。
使用人達の仕事を手伝おうとすると女中頭の静江が止めに入ってくる。
ここは東京市の山の手のにある六千坪の大豪邸。
使用人部屋に面した裏庭の最奥には屋敷の象徴ともいえる楠木がある。
樹齢三百年。この堂々たる楠木を見た祖父が、ここに屋敷を構えようと決意したという。
和歌山の地主だった御先祖を祀る祠を綺麗に磨き、寒風吹き荒む渡り廊下を歩いていると、奥州から来た新入りの女中のサヨが、せっせと掃除をしている様子が目に入った。
割烹着をつけ、手拭いを頭に巻いている茜は、白い息を吐きながら話しかけていく。
「あのね、豆腐水で廊下を磨くといい艶が出るのよ」
「本当でございますか」
「ええ、もうじき、豆腐屋さんが来るから頼んでみましょうね」
一緒に渡り廊下を雑巾で水拭きしようとするが、またしても女中頭に止められた。
「お願いですから、お嬢様、下女の手伝いなどしないでください。でないと、私達が奥様に叱られます」
そんなふうにして女中頭が茜から雑巾と箒を奪った時、妹の美也子が意地悪く笑いながら近寄ってきた。
「静江、今日は、お母様はいないわ。やらせてあげなさい。お姉様は下賤な暮らしが身についていらっしゃるのよ。じっとしてたら、きっと、貧乏人根性が疼いて、どうにかなっちゃうんだわ」
妹の美也子は母の長峰紅夜がいる時は、可愛い妹を演じているが、母達がいないところでは、いつも、こんなふうに嫌味なことを言う。
しかし、茜は二歳年下の妹に何を言われようと、あまり気にならない。
下町の悪ガキどもと取っ組み合いの喧嘩をしてきた茜にしてみれば、所詮、美也子など、我儘で甘ったれたお嬢ちゃんに過ぎない。
「美也子ちゃん、あなた、昨日、生理で粗相をしたようね。お布団を汚したみたいだから、綺麗に洗っておいてあげましたよ。それと、漏れにくいウールの当て布を作ってあげたから使ってみて」
茜がそう言うと、美也子は顔を真っ赤にして横を向いた。
「お、お姉様、ほんと、イライラする。気が合わないわ。本当は他所の子なんじゃないの?」
「何をおっしゃるのですか。茜様は奥様の若い頃に瓜二つでございますよ。誰が何と言おうと、茜様は長峰家の長女でございます。女学校でも常に成績優秀で、見ての通り、とても美しく聡明な方ですわ」
ムキになって女中頭が庇う。これもいつものことだ。
「フン。何よ。お姉様なんて帰ってこなけりゃ良かったのよ」
そうすれば、妹は両親の愛を独り占めできただろう。
しかし、母は、愚鈍な妹を嫁に出し、何事にも聡い姉の茜を後継ぎにして婿養子を迎えると公言している。百貨店に行けば特別扱い。帝劇も貴賓席。最新のドイツ製の自動車で名門の私立の女学校に通う毎日。日本の山林王と呼ばれる男の娘。普通に考えたら、自分は誰よりも恵まれている。
おそらく、未来永劫、生活に困窮するような事もない。それなのに、毎日、息苦しくて居心地が悪くて落ち着かない。
「お姉様は山の手より下町がお似合いよ」
それに対して、茜は本音を漏らしながら苦笑する。
「そうね。下町は好きよ」
☆
しかし、そんな事を口に出すべきではなかった。銀座の洋菓子店で茜の好きなエクレアを土産として買って帰ってきた母は大仰な声音で哀し気に呟いた。
「茜ちゃん、あなた、この家が嫌だと美也子に言ったそうね」
いや、そこまでは言っていないが、美也子は、母と茜との間に波風を立てたくて告げ口したらしい。
「なぜ、そんな哀しいことを言うの。お母様はこんなにも茜ちゃんを愛しているのよ。茜ちゃんはお母様の誇りだし宝物だわ。お願いだから、もう、昔のことは忘れてちょうだい」
訴えるような目でこちらを見つめる母は、まるで結婚前の小娘のように若く見える。
「もう忘れています」
神経過敏な母を傷付けたくないので、そう言うしかなかった。

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