第十一章

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 そういう訳なので、紫苑が楠木の花婿姿を目にすることはない。  半壊した九条家の修繕も、そろそろ終える頃である。昴からの手紙によると、四月からはこっちの学校に通えるから嬉しいと記されていた。  ちなみに、妙を含む昴の友達達は茜の父が建てた長屋に入居している。母子家庭の親子に限って家賃は一年間は免除すると父が言っている。  金勘定にうるさかった父も、自分が死にそうな危機に面した事で色々と気持ちが変化したようである。       ☆  今日は藤沢太市の命日だ。墓参りの帰り、茜は楠木と共にバスに乗った。  震災以後、公共機関としてバスとタクシーが増えている。その代わり、需要がなくなったのか、あんなにたくさんあった人力車が姿を消している。  一年前の今日、茜のお父ちゃんは自ら命を断った。  楠木が調べてくれたおかげで太市の遺骨がこの寺のお墓に埋められている事を知ったので、お参りに来たのだが……。  茜は、少し複雑な気持ちで振り返る。 「実は、あたし、こないだ、お父ちゃんの油絵、ネクタイ売りのおじさんに見せてもらったんです」  ネクタイ売りの露天商の男の家は火災から逃れて無事だった。だから、額に入った絵もそのまま残っていたのだが……。  赤ん坊を抱いた日本人の女の人の絵だった。その女の人の顔は太市に似ていた。  その絵のサインを読んでみると、ローマ字で浮田時光と記されていたのだ。これは、どういうことだろう。あれから、ずっと茜は考えている。  すると、楠木は腕組みをしながら語り出した。 「実は、僕は、去年のお盆の時期に浮田家のお墓に行ったんです。それで、たまたま、浮田家の知り合いだった隣人の御婦人と居合わせて、色々と話を聞かせてもらいました」  すると、こう言ったという。 『太市は真面目な子やったわ。自分が捨て子やということも、よう分かっとるわ。浮田の家でお世話になっとるさかいに、迷惑をかけんように服でも草鞋でも何でもしまつして使う子やった』  しまつというのは方言だ。節約するという意味らしい。 『長男の時光ちゃんも優しいけどな、とにかく風変わりでな。一日中、ぼーっと空を見てたりする。空の向こうの国に行きたいとか言いよるねん。ここだけの話やけど、隣の席におった太市が時光ちゃんの答案を書いたという噂やで……。とにかく、仲がええねん』  太市は子供の頃から眼鏡をかけていた。本ばかり読んでいた。  時光は少し髪が長かった。教諭に切れと言われてもそれを嫌がるような子だったそうだ。  その時、楠木は、子供時代の太市と時光の人物像に違和感を感じて心がむず痒くなったという。茜は言った。 「もしかしたら、二人は入れ替わっていたのかしら……」  ここからは推測だ。  お父ちゃんは大店の長男で家を継がなければならない身の上だが絵の勉強をしたい。一方、捨て子の太市は大学で学びたい。だから、東京に出ている間、二人は入れ替わることにする。  東京大学に合格したと自慢したいが故に、布屋の両親も太市に身代わりを頼んだ可能性は否めない。  長男が東大に入ったとなれば親達は近所に自慢できる。そんな打算もあったかもしれない。 「果たして何が真実なのか……」  隣の座席に座っている楠木が言い継いでいる。 「なんだか、僕達、ずっと謎めいた迷宮を歩き続けているみたいな感じですね。もしかしたら、一生、本当のことなんて分からないのかもしれないですね」 「そうですね。あたしも分からなくなってきました。だけど、どっちでもいいんです。あたしにとって、お父ちゃんは大切な家族です。正体不明のコーヒー売りの優しいお父ちゃん。それでいいんです」  お父ちゃんは絵描きになりたくて渡欧したのに挫折した。  お父ちゃんは孤独だった。  おそらく、みんなと同じようには生きられない苦しみを抱えていたに違いない。  でも、茜と暮らすことで何かが変わった。生き甲斐を見つけたのだと思いたい。

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