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時代は大正から昭和に変わり、数年が過ぎた頃。
桜の花びらが風に舞い、校舎の窓ガラスに静かに貼りついたある日の午後。
和枝が通う尋常小学校の職員室に、アメリカから送られた一つの木箱が届いた。
校長は、その箱を前に困惑の表情を浮かべていた。
箱には英語で何やら書かれており、中に入っていたものは、これまで見たことのない、美しい西洋人形であった。
金色に輝く髪は絹のように滑らかで、陽光を受けて一筋一筋が宝石のような輝きを放っていた。
青い瞳は深い海のように澄んでおり、まるで生きているかのような生命力を湛えていた。
白い肌は陶磁器のように滑らかで、薔薇色の唇は微かに笑みを浮かべているようにも見えた。
ドレスは細やかなレースで飾られており、小さな真珠のボタンが上品に光っていた。
「これは、日米親善のために、遠いアメリカから日本中の学校に贈られた友情人形だそうです」
全校集会で校長がそう説明すると、子どもたちからは感嘆の声が上がった。
和枝もまた、その美しさに息を呑んだ一人だった。
まるで絵本の中から抜け出してきた王女のような人形だった。
人形には「メアリー」という名前が付けられており、学校の廊下のガラスケースに大切に飾られることになった。
それ以来、和枝の頭の中は、メアリーのことでいっぱいになった。
和枝の髪は黒く、瞳も黒い。着ているのは質素な着物。
一方、メアリーは金色の髪、青い瞳、豪華なドレス。
何もかもが和枝の知る世界とは違っていた。
メアリーは遠い異国から来た、まるで別世界の住人であった。
寝る前も、和枝はメアリーのことを思った。
今、静かな夜の廊下でメアリーは何を見ているのだろうか。窓から差し込む月光を浴びて、金色の髪を輝かせているのだろうか。
翌朝、和枝は心を躍らせて学校に向かった。
昇降口で上履きに履き替えると、真っ先に廊下のガラスケースへと向かった。
そこには昨日と変わらず、美しいメアリーが微笑んでいた。
朝の光を受けて、金色の髪はより一層美しく輝いていた。
「おはよう、メアリーちゃん」
和枝は話しかけた。
もちろん、メアリーは答えない。
しかし、その優しい表情は和枝に応えてくれているように見えた。
和枝は子どもの頃から人見知りが激しく、なかなか友達ができなかった。
そんな和枝にとって、メアリーの存在は特別なものだった。
休み時間になるたびに、和枝の足はガラスケースの前へと向かった。
そして、メアリーを見つめながら、静かに語りかけるのだった。
「今日の算数、また間違えちゃった。九九がなかなか覚えられないの。みんなはすらすら言えるのに、どうして私はできないの」
メアリーの青い瞳は、静かに和枝の悩みを受け止めていた。
「お母様が作ってくれたお弁当、今日はたくあんが入ってたのよ。メアリーちゃんの国ではどんなお食事をしているの? きっと美味しいものを食べているのでしょうね」
和枝は想像を膨らませた。アメリカという遠い国では、メアリーのような美しい人たちが楽しく過ごしているのだろう。そんな風景を思い描くと、心が華やぐ気がした。
こうして、メアリーは和枝にとってかけがえのない友達になった。
ある日の午後、雨が激しく降る中、和枝はいつものようにガラスケースの前に立っていた。
「今日はとても寂しい気持ち。雨の音を聞いていると、なんだか涙が出そうになる。でもね、メアリーちゃんがいてくれるから大丈夫なの」
和枝はガラスケースに手をそっと当てた。
冷たいガラス越しでも、メアリーの温もりを感じられるような気がした。
メアリーの青い瞳は、雨の憂鬱を晴らしてくれるように見えた。
季節は夏に向かい、蝉の声が校舎に響く頃になっても、和枝とメアリーの友情は続いていた。
和枝にとって、メアリーは秘密を分かち合う親友であり、この世で一番信頼できる存在だった。そんな平和な日々が、永遠に続くと和枝は信じていた。
しかし、時代の空気は次第に重苦しいものへとなっていった。
新聞は連日、国際情勢の緊張を伝えており、ラジオからは勇ましい軍歌が流れるようになった。
学校でも「お国のため」「天皇陛下のため」という言葉が日常的に聞かれるようになり、皇国民としての自覚を求められるようになった。
「最近、先生もお父様やお母様も、厳しい顔をしていることが多くなったの。でもね、メアリーちゃんはいつも優しい顔をしてくれるから大好き!」
昭和十六年十二月八日の朝、ラジオから流れた臨時ニュースでは、日本がアメリカと戦争を始めたことが報じられていた。
「帝国陸海軍は、八日未明、西太平洋においてアメリカ・イギリス軍と戦闘状態に入れり」
和枝が登校すると、学校は騒然としていた。
アメリカは敵国になった。つまり、メアリーの祖国は日本の敵になったのだった。
その日の放課後、和枝は重い足取りでガラスケースの前に立った。
メアリーは相変わらず美しく微笑んでいたが、和枝にはその表情が少し悲しそうにも見えた。
「メアリーちゃん、あなたの国と戦争をするなんて……」
和枝の目には涙が滲んでいた。

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