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冷蔵庫のプラグを抜いた。もはや必要ないからだ。
「腹が減った。」散乱したゴミを踏みながら玄関に向かう。
時刻は23:00を過ぎている。
空には人の気など知らず、黄色い満月が煌々と鎮座している。
ポケットの中身をさぐると、出てきたのは僅かな小銭と三千円。
少し歩けばコンビニがある。そこまで行こう。
仕事を解雇され、生活は路頭に迷う直前だ。理由は部下の愚かな行為のせい。
そのために俺は周囲からの信用を失い。会社を追われた。
身を削って奉仕してきた組織は、俺をゴミのように捨てたのだ。
今考えても、怒りが湧き、憎しみが募る。
「畜生。」
と、鼻に漂ってきた食欲をそそる香り。
目を向ければ、屋台がひとつ。暗い道の中で商売をしている。
一歩進むたび、漂う香りは主張を強め、腹の虫がそれに応える。
小豆色の暖簾をみれば『蕎麦』と飾り気なく書かれていた。
「あいてますよ。」暖簾の奥から聞こえたザラついた寂声。
雨風にさらされ、錆びた蝶番のようだ。
暖簾を潜れば、そこにいたのは声の主たる店主。
年季を感じさせる白い作務衣に身を包み、坊主頭には和帽子を乗せている。古い雑誌で足の一本が調整された長椅子に腰掛けると、店主がグラスを出して酒を注ぐ。
「サービスです」
屋台を見回す。出汁の香りを立ち上らせる鍋に、ラップで包まれた蕎麦。
古めかしいが、無駄がない。長年の経験が蓄積されたような場所。
木札にかけられたメニューを見る。値段は今どきにしては安価だ。
俺は木札の一つに目をとめた。
そうだ。あの空に偉そうに浮かんでいる月を食ってやろう。
「月見蕎麦。ひとつ」
店主は、何を応えるでもなく手を動かし始める。愛想がないオヤジだ。
こっちは客だぞ。もっと態度ってもんがあるだろう。
「お選びください」突然、俺の前に卵が入った籠が差し出された。
「なにか違うのか」と問うが、店主は何も答えない。
妙な趣向だが、この店主にしてこの店アリというところか。
まぁいい。目についた卵を一つ指差す。
店主は”ほう。そうですか”と言ってその卵を取ると御玉に乗せ、
お湯を煮立たせていた小さな鍋に放り込んだ。鍋底からの泡に押され卵が踊る。
世間話もなくただ、店主が手を動かす音と鍋の中で泡が弾ける音が聞こえる。
見れば店主越しに月が見えた。気のせいか先ほどの煌々とした様子よりどこか、
赤みがかって見えた。
その間にも、店主は手際良く手を動かしていく。
茹で上がった卵を鍋からあげ、水に漬けると冷やされた御玉が音を上げる。
やがて蕎麦が茹で上がり、店主は手慣れた動きでお湯をきる。
椀の中に鰹の香りが漂う半透明の出汁つゆ が注がれ、蕎麦が沈められる。
ネギ、蒲鉾、ほうれん草が赤子を扱うような丁寧さで置かれた。
これまで何百何千何万と繰り返してきたような動きだ。
「おまちどう。月見そば」店主はそういうと、湯気を立ち上らせる掛け蕎麦と、
小皿に乗せた卵をカウンターに置いた。屋台の白熱灯が蕎麦の椀の中に反射する。
卵は自分で割れということらしい。
出来上がった卵をカウンターの角で叩きヒビを入れる。
湯気を立ち昇らせる椀の上で卵を割った。
質量のある物体が落ち、蕎麦に"ボシャッ!"と波紋を広げた。
「クッソ!」俺は席から飛び退るような勢いで悪態をついた。
有精卵だ。
蕎麦の中に現れたのは、黄色と白の半熟のゆで卵ではなく
臙脂色の肉とわずかに生えた羽毛を有する ひよこの姿。
椀の中心で波を立てながら、蕎麦の出汁を徐々に赫く染めていく。
吐き気を催した。胃の内部から食欲が剃刀で削がれるようだ。
「おいオヤジ!早く、此奴を引っ込めろ!」
カウンター内で立ち尽くす店主に俺は罵倒混じりに指示を出す。
“すいません”という謝罪が、沸々と出汁つゆ が煮たつ音に紛れ、俺の耳に触れる。
店主のものではない。だが、その声に確かな聞き覚えがあった。
“すいません。すぐやります”
俺は椀の中に引き攣るように目を落とす。
蕎麦の上に浮かぶひよこ。その白濁した眼が瞼の隙間から俺を捉えていた。
半透明の嘴が開き閉じる。を繰り返す。
“すいません課長。すいません”
ひよこを中心に、蕎麦の中で赫い筋が波紋を為す。
"しね。"
「ヒィッ!」
全身が泡立ち、後ろにひっくり返った。
長椅子が倒れ、夜の静な空気に音が兒玉する。
別の意思を持ったような両手足を必死に動かし、屋台から逃げ出す。
その時、右側に見えた二つの光と、耳を聾するようなクラクションが俺を襲った。
鼻を擦るような距離をトラックが通過する。
急ブレーキ。聞こえる罵詈。走り去るエンジン音。
俺は尻と手のひらで、アスファルトの冷たさを感じていた。
その冷たさと極限の緊張感を超えた現実が、俺の頭を冷やしていく。
心臓は早鐘を打ちつつも、恐怖は徐々に成りを潜め始める。
一歩違えば死んでいた。
いや殺されていた。
誰に?脳裏に一人の姿が浮かぶ。
そして代わりに、胸の中で膨張していく別の感情。
振り返ればまだ、そこには屋台が立ち尽くし、
カウンターでは、蕎麦が湯気を立てている。
一歩一歩と手足を支配しながら進む。
暖簾を潜り、蕎麦に対峙する。
椀の中のひよこは譫言を繰り返してる。
“すいません” ”ごめんなさい” “どうして” ”畜生” ”しね。しね。しね”
『煩ぇ』
ひったくるように箸を鷲掴み、それを戯言を言っている ひよこ に振り下ろした。
「何が”すいませんだ”。”すみません”だって言ってるだろうが!」
椀の底を打つ衝撃が手に伝わり、ひよこは”グェ”と無様な声をあげる。
嘴をパクパクと間抜けに開閉させ、半開きだった瞼を閉じ沈黙する。
『そうだ。あの時、アイツを指導してやった時もこんな声をあげていた。』
再び箸を持ち上げ、椀の中の哀れなアイツと、蕎麦を滅茶苦茶に引っ掻き回す。
崩壊したアイツを蕎麦と共に箸で掴み、大口で含む。
腥さ。頬肉に抵抗するように突き刺さる骨。ズルリとした球体。
それを蕎麦もろとも奥歯で噛み砕く。
一回一回、確実にアイツの抵抗をすり潰すように。
『あぁ聞こえる。奴の叫びが慟哭が。気分がいい。』
化けて出れば、怨みと晴らせると思ったか?
だからお前は馬鹿なんだ。愚かなんだ。無能なんだ。
だから俺は指導してやったんだ。
なのに、くだらない紙切れを残して首を括りやがって。
おかげで俺はこの様だ。絶望だよ。恨みたいのはコッチだ。
全部喰ってやるよ。お前の矮小な怨みつらみなんざ、知ったことか。
この臆病者が。そうだお前は月見蕎麦じゃねぇ。
臆病者蕎麦だ。それがお前にお似合いだ!
人間はな、死んだら負けなんだ。
生きてる奴が最後には勝つんだ!
椀を持ち上げ、血と残肉、脂で濁った出汁つゆを喉を鳴らして飲み下す。
アイツを支配し、取り込む。一片たりとも残さない。
最後の一口。一雫。底を舐めるようにして、俺は椀を殻にした。
どうだ。勝った。俺は勝ったぞ。口を袖口で拭う。
口角が自然と上がっていた。嗤笑い。嘲笑い。
俺はポケットから、丸まった千円紙幣を投げるように店主に渡す。
「ごちそうさん。釣銭くれ。」
「はい。毎度あり。」
直後、目の前から屋台は霞のように消え去り、地面には小銭が転がる音。
夜空には真っ赫に充血した月が、悔しげに俺を見おろしていた。

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