ブラック上司に鉄槌を

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 薄暗い部屋で、神谷(かみや)(わら)人形を握りしめる。憎き上司・近藤の顔を思い浮かべながらグサリ、と針を刺すと、胸の奥が一瞬だけ軽くなった。この人形を手に入れたのは、魔除けや幸運を求めたわけじゃない。ただ、毎日のように降りかかる地獄のような職場のストレスから抜け出すためだった。  入社3年目、総務部に配属された神谷の直属の上司は、社内でも悪名高き近藤だった。不明瞭な指示、ミスへの罵倒、部下を次々と潰すブラック上司の鏡。実際彼の部下として、半年以上長続きした強者はいなかった。神谷はそんな男の下で、意地でも耐え抜いてやろうと息巻いていたのだが──  「お前、これどういうつもりだ!」近藤の怒鳴り声がフロア全体に響く。書類の山と蛍光灯の冷たい光の下、同僚たちは目を伏せて黙々とキーボードを叩いている。指示が曖昧なせいで起きたミスを、近藤は毎回ネチネチと責め立てた。毎日のように人前で罵倒される──そんな日々が続けば、まともな人間なら誰だって壊れてしまう。神谷も例外ではなかった。次第に同じフロアにあった他部署との連携にも精彩を欠くようになって(職種柄部署を跨いだやりとりは頻繁にあった)、職場で孤立するようになっていく。そして2ヶ月程経った頃には、翌日の仕事が不安で夜も眠れないくらいになっていた。  もう限界だ──こうして藁人形を手にしたのだ。正気を失いかけていた神谷は、にもすがる思いだった。毎晩、人形に針を刺すその瞬間だけは、まるで近藤をこの手で握り潰しているような歪んだ解放感を伴って、胸の奥につっかえる何かが溶けてなくなった。  時折り、どこか遠くで誰かの(うめ)き声が聞こえるような気がしたが、それが近藤の声であることに彼が気づくのは、もう少し後のことだった。 ▼    神谷が藁人形に針を刺し始めてから、1週間が経ったある日のこと。  近藤は体調不良を理由に、急遽会社を休んだ。それ以来会社を休みがちになり、出社してもどこか覇気が無く、怒る気力もなくしてしまったのか、神谷に罵声を浴びせることもほとんどなかった。近藤の罵声が消えたオフィスは、随分と風通しが良くなったようだった。  神谷は同僚と笑いながら昼食を取るようになり、仕事のミスも減っていった。むしろ近藤の方が単純なミスを繰り返した。上司のミスのせいで残業時間はそれ相応に増えたが、以前のような罵倒地獄と比べれば天国のようなものだ。    まさか…人形の効果?  夜、針を刺す手が一瞬震えた。ストレスのはけ口のつもりだったのに、どこかで本気で信じ始めている自分がいた。黒い糸でかたどった藁人形の目が、暗闇でこちらを見ている気がして、背筋に冷たいものが走る。  それからも神谷は、毎晩針を刺す儀式を続けた。自分以外に今後二度とパワハラの犠牲者が出ないよう、近藤が出社できなくなるまで続けようと思ったのだ。まるで理不尽な人間に罰を下す神になったような気分だった。    その甲斐あってか、近藤の体調は悪化の一途をたどり、入退院を繰り返すまでになる。そしてとうとう休職するに至るのだった。その頃にはもう、藁人形の体は針穴だらけでずたぼろになっており、ほとんど原型を留めてはいなかった。    神谷が当てつけのつもりで見舞いに訪れると、近藤は見るも無惨な姿でベッドに横たわっている。顔面を含め体中に包帯を巻いたその惨状を見て、神谷は密かにぞくりと悦に浸った。 「いったい何があったんですか?」 「家が…か、火事になって…ぜ、全身…大火傷さ…」  途切れ途切れの掠れた声だ。もう話すのもやっとらしい。神谷は『自業自得だろ』と心の声が漏れそうになるのを堪えた。近藤の容態は極めて重く、社会復帰はもう難しいらしい。 「これ、お見舞いの品です。これ以上不幸なことが起こりませんように」  心にもない捨て台詞を吐いて、神谷は病室をあとにした。  これでもう、藁人形にも近藤にも用はあるまい…    近藤のベッド脇にあるテーブルには、神谷がプレゼントしたずたぼろの藁人形が置かれ、元々飾ってあった見舞いの花束が、みるみる内に(しお)れていく。それを横目に見た近藤は、慌ててナースコールを押そうとしたが、まるで金縛りにあったかのように身動きひとつ取れなかった。     《了》

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