50人が本棚に入れています
本棚に追加
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
彼の歩幅は大きくて、まるで引きずられるようだった。
「ねぇ、わたし転んじゃう!……女に合わせるってこと知らないの?」
容姿だけ見れば、女に慣れていそうなのに。案外、違うのかもしれない。
すぐに立ち止まると私に向き合って、ジャンは素直に詫びた。
「……すまん。手をつないでやろうか?」
「……え?」
ジャンは返事を待たず、私の手を取って再び歩き出した。無造作なのに丁寧で、手のひらから伝わる温もりが心地良かった。
「部屋に行く。しばらく誰も通すなよ」
すれ違う従業員に声をかける時も、ジャンは立ち止まらなかった。それから階段を上って長い廊下を歩いて、ようやく足を止めたのは、意匠を凝らした大きな扉の前だった。
そしていざ——“ジャンの部屋”の前に立つと、なぜか私は全力で抵抗していた。
「……どうした?」
「やっぱりダメです。知らない男性と、二人きりにはなれません。……なにをされるか分からないもの」
「ああ……そうか。だが、安心しろ。襲ったりしないから」
襲わないと言ったからって、本当に襲わないとは限らない。私はまだ、彼を信じきれてはいなかった。
「でも、嫌なんです。だってこんな……賭博場に個室を持ってるような人、どれだけ入り浸ってるか……分かったものじゃないわ」
ジャンは瞼を閉じ、深く息を吸い込む。
「入り浸ってる、か」
腰に帯びた剣を外しながら、私を見つめた。やがて目を細めると、扉を片手で押し開けた。
「まぁ、否定はしないけどな」
今度は眉を上げ、茶化すような笑みを浮かべる。扉を開けたまま剣を椅子に放り投げると、今度は両手を上げて見せた。
「どうだ? これなら、安心だろ?」
ようやく私は頷いた。けれど、部屋に入ってもまだ不安で、幾度も振り向いてはドアを確認してしまう。
「……心配しすぎかしら」
小さく呟いて視線を戻すと、ジャンがクローゼットを探っているところだった。二つの鞄を手に取り状態を確かめながら、こちらへ歩み寄ってくる。
「ほら、二つとも持って行きなよ。まぁ好みに合うかは……わからんが」
「こんな高そうな鞄、いただけないわ」
たとえ一瞬でも、襲われると疑った自分が恥ずかしかった。
差し出された鞄は彼なりの思いやりだったのに、それを無下にした気がして。
「あと……汚れた鞄。空にしてくれるか? シミ、落とせるか聞いてみるから」
「そこまでしていただかなくても……それじゃあ、鞄、ひとつだけ頂くわ」
真摯な瞳に見つめられて――その思いやりを、素直に受け取るべきだと思った。
鞄を抱えて、私は初めてジャンに笑顔を向けた。
素性もわからない人に隙を見せちゃいけないと分かってるのに、まったく抗えなかった。
「ありがとうございます」
荷物を移し終える頃、見計らったようにジャンが覗き込む。空色の瞳は、どこか捉えどころがない。けれど、そんなことよりも——吸い込まれるような美しさの方が際立っていた。
「……さて、さっきのお嬢ちゃんも一緒に家まで送ろうか」
振り向くと、部屋の奥にある大きな机も目に入った。そこには、山積みの書類と数冊の本。無造作に置かれた幾つもの栄養剤や酒の入ったグラスが並んでいた。
それを見た瞬間、彼の荒んだ生活を想像して不安になった。
これはいったい、どんな感情なんだろう。
自分の気持ちなのに、怖いくらい分からなかった。誰かの事情が、こんなにも気になったことはない。
「ねぇ、あなた……ちゃんと食べてる?」
不意に口を突いたのは、彼を気遣う言葉だった。
「……ああ」
短く答えると、ジャンは視線を逸らした。
ほんの一瞬の沈黙が、まるで深い溝みたいに思えた。
出会ってまだ数時間だけれど、初めて“壁”を感じる瞬間だった。
“これ以上踏み込むな”と言われたようで、言葉を継ぐことさえできなかった。

最初のコメントを投稿しよう!