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第36話 磁石のように
「明日香さんはさ、つまり日向を返したくなくなったってこと?」
「⋯⋯」
彼女は下を向いて何も喋らなくなってしまった。僕は自分も何か言えることがないか、高速で考えた。
「京、僕たちが無理に頼んだんだし、明日香だけ責めたらかわいそうだよ」
「呼び捨て! そういうのが普通になってんのが嫌なんだよ。⋯⋯世話になったとは思ってるけど」
明日香は右耳に髪をかけながら真正面を向くと、こう言った。
「男だからとか、女だからとかじゃなくて、日向くんを好きになったらいけないのかな? 好きになるのって自由じゃない?」
ラウンジは静まった。教室棟の方ではまだ賑やかな声が響いている。ラウンジ前の廊下を通る人がいなくて、沈黙を破るきっかけがほしかった。
よりによって僕がその沈黙の原因になるなんて!
僕なんかにそんな魅力があるとは全然覚えがなくて、焦る。
静かに見つめ合う、京と明日香の視線は決して優しいものではなかった。
「明日香さん、確かに俺は付き合った時、全然優しくなかったけど――」
「鏑木くんはすごく優しくしてくれたじゃない。紳士的だったし、わたし、初めて付き合ったのが鏑木くんで良かったと思ってる。でも今は日向くんが好きなの。ナチュラルで優しい日向くんが。鏑木くんならその気持ち、わかってくれるでしょう?」
京も黙ってしまった。
沈黙がまた訪れる。
「嶺岸さんが福留を好きになったってのはわかった。福留を好きになる気持ちはよくわかる。クラスのみんなは『嶺岸さんを囲む会』がここで行われてると思ってるだろうけど、実際は『福留を囲む会』だもんな。まぁ、俺は鏑木に半歩譲ってるけど」
「⋯⋯半歩かよ」
「やめてよ、鷹野が相談に乗ってくれて助かってるんだから」
鷹野はやれやれ、という顔をして「お前、その、福留のことになるとカッとするくせ、やめた方がいいぞ。隣にいる福留の居心地が悪くなる」と言った。
京は黙って、俯いた。
鷹野が続ける。
「それじゃ福留が選べば話はシンプルになるんじゃないの? それとも嶺岸さんは自分を好きじゃない男が自分を好きになるまで隣に置いておきたいの?」
「⋯⋯鷹野くんは恋をしたことはないの? 一筋の光がなくても、その人の隣にいたいって気持ち」
「明日香、本当にごめん! そういう風に言ってもらえるほど僕は立派じゃないし、好きになってもらえたことは嬉しいと思うんだけど⋯⋯」
「うん、わかってる。鏑木くんが好きなんだよね。でも、それなら尚更わたしをこれからも隠れ蓑にしたらいいと思うよ。わたし、まだ協力できる」
「⋯⋯だから」
京は静かに切り出した。
「俺が耐えられないんだよ、今の状況に。やっぱり多少のリスクがあっても、誰かに日向を預けたりできないよ。明日香さんのしてくれたことには感謝してる。俺なんか明日香さんに何もしてあげられなかったのにさ」
誰も言葉を口にできなくて、沈黙が海の底のように僕らを沈めた。息をするのが苦しい。
その時、丁度予鈴が鳴って、それぞれが広げていた弁当をしまい始めた。黙ってできる作業だった。
じゃあ、と言う頃合になった時、立ち上がった京は僕の手を引いた。しっかり手を握りしめて。
「ごちそうさま。そういうわけでもらって帰るわ」
「ちょっと京! だからって」
京は繋いだ手をパッと離した。
「日向の嫌がることはしないよ」と微笑んで「先に戻るわ」と教室へ向かった。
京の手が触れた部分が熱かった。京の心の内を考えると、やるせなかった。
今すぐ走っていって、京を捕まえたかった。
それで、僕が京にできることを考えた。
「明日香⋯⋯嶺岸さん、ごめん! 謝って済むことじゃないと思うんだけど」
「わかってたことだから、気にしないで。それからふたりの秘密は誰にも話さないから安心してね」
頭を下げて、廊下を走った。
すれ違う教師に嫌な顔をされる。
京の背中が見える。僕はその肩をつかんだ。
「京、僕が一緒にいたいのは京だけだ」
振り向いた京は僕の目を見て、「わかってるよ」と頭を軽く叩いた。
僕たちは自分たちのメリットのために、手を繋ぐことはなかった。でも並行に歩いた。手と手の触れそうな距離で。
誰かを傷付けても欲しいものがあるということを、生まれて初めて知った。誰かを傷付けるなんて、何があってもいけないことだとずっと思って生きてきた。
つまり、僕は咎人になったのかもしれない。
京と僕を守るために。
◇
帰り道に駅まで歩く相手が変わった。元に戻った。もう、間に嶺岸さんを挟むことはなくなった。
彼女は教室に戻るともう泣いていて、女子に取り囲まれていた。『嶺岸さんを囲む会』の帰りにどうして主役の彼女が泣きながら戻ってきたのか、誰もが不思議に思っているようだった。
だけど答えは誰にも出せないようだった。申し訳なさで心がいっぱいになった。
京はHRが終わると当たり前のように「帰ろう」と声をかけてきたので、僕もすっかり以前の気持ちを思い出して文具をリュックに放り投げた。
久しぶりにふたりで昇降口を、何のしがらみもなく抜けて、新しい風を受ける。
その風は強く荒々しいものだったけど、ふたりならそれだけで楽しかった。
「良かったの? 明日香さんのこと」
京は珍しく控え目にそう訊いてきた。
「いいんだよ。確かに彼女は綺麗で賢い人で気も回る人だったけど、どんなに素敵な人が現れても僕には京を上回る人はいない」
「⋯⋯そんなことを言われるほどのことをした覚えはないけど」
「忘れてるだけだよ、きっと」
今日の惣菜コーナーの売り出しはクリームコロッケで、京はカゴを持ったまま考え事をしていた。
福留は中に入っているのか、姿が見えなかった。
クリームコロッケに値下げシールを貼ってほしかったのかと思いつつ、後ろで待っていた。
すると「日向はクリームコロッケは好き? ほら、クリームコロッケって好き嫌いあるじゃん」と訊いてきた。ああ、そんな小さなことで悩んでたのかとホッとする。
「うん、クリームコロッケ好きだよ」
「そっか。じゃあ明日のメインはこれな。あとは何にするかな? ゆで卵サラダとか、食べたことある?」
「ないかな」
「じゃあそれにしよう」
黙々と買い物を進める背中はなぜかうれしそうで、僕は京にずいぶん酷いことをしていたんじゃないかという気がしてくる。嶺岸さんと仲良くなって、舞い上がってなかったかと訊かれたら。
「お待たせ」
「持つものある?」
「そんなに重いもの買ってないから心配するなよ」
手と手が触れそうになって、つい握ってしまいそうになる。京の手が、優しく僕の手を払う。あっと思う。
「福留さんの職場で噂になっちゃうわけにはいかないだろ?」
「つい」
「わかるけどさ」と京は苦笑した。
僕の手と京の手は磁石のように引かれ合う。つい、繋がってしまう。そうすると、気持ちもひとつになれるのに、繋げる状況が少ない⋯⋯。
「福留さんには悪いけど、日向の部屋に行くか」
◇
「うわぁ」
急に両手を引かれて京に飛び込むように倒れ込む。僕の重みで京は僕のベッドに倒れ込んだ。
「驚い⋯⋯」
チュッ、と口付けられる。それだけで幸せな気分になる。花が開いたような気分になる。
両手を回されて抱きしめられると、もう何もいらない。京以外、何も。
「はーッ、やっとふたりきりになれた!」
「ここにいる時はいつもふたりきりでしょう?」
「違う。そういう意味じゃなくて!」
「わかってる! わかってるからくすぐったいの、やめて」
京はふーっと僕の耳に息を吹きかけた。

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