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第1章 月影に誘われて
春の夜。
街の明かりが沈み、静寂が訪れる頃。
小さな喫茶店「月のしずく」は
いつものように閉店の時間を迎えていた。
店主の月森鈴音は、最後のカップを丁寧に磨きながら、
深く息をつく。
「……今日も、無事に終わったね」
壁際のカウンターに座る古びた時計が
コチリと音を立てる。
その音に耳を澄ませると
不思議と胸の奥がざわつくのだった。
まるで――何かが、自分を呼んでいるような。
店の窓を開けると、春の風が鈴音の髪をなでた。
月がまるで銀の盃のように輝き
夜空に浮かんでいる。
その光がふと、足元に淡く光る
“何か”を照らした。
それは、猫の形をした古びた銀のペンダント。
長年、店の片隅に置いてあった――
拾い主も、由来も分からぬ、不思議な装飾品。
けれど、今夜は違った。
鈴音が手に取ると
ペンダントが小さく脈打つように震え
光の輪を描き始めた。
「え……?」
次の瞬間、眩い光が店内を包み
カップも、椅子も、時計の音も――
すべてが消えた。
そして彼女の足元には
金色の砂と、柔らかく揺れる
白い花畑が広がっていた。
「ここは……どこ?」
目の前を、一匹の白猫が通り過ぎる。
その毛並みはまるで絹のように滑らかで
首元には宝石があしらわれた首輪が輝いていた。
猫は鈴音をじっと見上げると、
まるで人間のような声で言った。
「……異界の者だな。どうして“王の国”に足を踏み入れた?」
鈴音は息を呑んだ。
目の前の猫が、しゃべっている――。
「ま、待って……! あなた、喋って……!?」
「当然だ。ここはニャルディア王国。
この地に言葉を持たぬものなど、奴隷だけだ」
奴隷。
その言葉が、鈴音の心に重く沈んだ。
ふと遠くを見ると
高くそびえる城壁の内側で
黒や灰色の猫たちが鎖をつけられ
静かに俯いているのが見えた。
「……まさか、猫の国に……?」
白猫は静かに尾を揺らす。
「そうだ。王と女王、そして二匹の皇子と姫が治める地。だが――この国は、決して楽園ではない」
白猫の名は、リュシエン。
王城に仕える近衛の長であり
かつて奴隷の身から昇格した“異端の猫”だった。
リュシエンは鈴音の瞳を見つめ、言葉を続ける。
「君は……“呼ばれた”のだ。この国を変えるために。
いや――この国に“封じられた真実”を、思い出すために」
「……思い出す?」
「鈴音。君は、かつてこの国の“女王の涙”を受けた人間だ。忘れているだけだ」
その瞬間、鈴音の頭に稲妻のような痛みが走る。
胸の奥で、誰かの声が囁いた。
“鈴音……どうか、あの子を……王子を、救って……”
涙が一粒、頬を伝った。
なぜ泣いているのか分からない。
けれど、心が確かに、何かを覚えていた。
「リュシエン……お願い。教えて。
この国で、私に何ができるの?」
白猫は静かに頷いた。
「では行こう。王が君を待っている――
“月の玉座”へ」
こうして、鈴音の運命の扉が開かれた。
猫の王国――ニャルディア。
美しき王と、その影に潜む残酷な真実。
そして、鈴音が忘れていた悲しい約束が、
ゆっくりとその姿を現し始めるのだった。

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