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夏休みの終わりが近づくと、子供たちの遊びは少しだけ大胆になる。
「よし、やるぞ!」
波瑠斗は懐中電灯を片手に、廃校舎の理科室の扉を開けた。
八月の終わりの夜、月明かりが窓から差し込んで、埃が積もった理科室を青白く照らしている。
「波瑠斗、本当にやるのか?」
後ろから友達の健太が不安そうな声を出す。
もう一人の友達、美咲も懐中電灯を持ちながら、少し震えている。
「だって、せっかく見つけたんだもん。この本」
波瑠斗が取り出したのは、図書館の隅で見つけた古い本だった。背表紙は擦り切れて、タイトルもほとんど読めない。
中身は奇妙な図形と、読めない文字で埋め尽くされていた。
「悪魔召喚の本だぜ!」
「そんなの、嘘に決まってるだろ」
健太はそう言ったが、好奇心に負けて一緒についてきているのであった。
波瑠斗は床にチョークで円を描いた。本のページを真似して、不思議な記号や線を加えていく。
小学五年生の手つきで描かれたそれは、どこか歪であり、そして、子供らしい拙さがあった。
「お供え物は……これでいっか」
波瑠斗は、コンビニで買ったグミとチョコレートを円の中央に置いた。
「それでいいのかよ」
健太が笑う。
「てかさ、悪魔ってお菓子食べんの?」
「知らないよ。でも、神様にお供えするのとたぶん同じでしょ」
三人は円を囲んで座った。
本に書いてあった呪文らしき文字を、波瑠斗が読み上げようとする。が、よくわからない。でたらめに発音してみた。
何も起こらない。
「やっぱりね……」
そう言って健太が立ち上がろうとしたとき、部屋の空気が変わったのを感じ取った。理科室の温度が急に下がった気がしたのだ。
懐中電灯の光が揺れる。いや、揺れているのは光じゃない。空間そのものが、波打っているような感覚だった。
「ね、ねえ……」
美咲が震える声を出す。
円の中央、盛られたお菓子の上に、黒い影のようなものが浮かんでいた。
それは最初、煙のように揺らめいていたが、やがて輪郭を持ち始めた。
──小さな人型のなにか。
子猫ほどの大きさであり、全身が黒い霧でできているような存在。頭部には二つの赤い光点、目のようなものが灯っている。
「うわあ!」
健太と美咲が悲鳴を上げて、教室を飛び出していった。
廊下を走る二人の足音は遠ざかっていった。
そして、波瑠斗だけがその場に残った。
影は空中に浮かんだまま、じっとこちらを見ていた。
波瑠斗の心臓は激しく鳴っていたが、不思議と恐怖よりも興味が勝った。
「き、きみ……悪魔?」
影はゆっくりと頷いた。
小さな声が聞こえてきた。まるで遠くから響いてくるような、不思議な響きを持つ声。
『俺の名はルミノス。汝の召喚に応え、ここに参上した』
波瑠斗は目を丸くした。それから、急に笑い出した。
「すご~い! 本当に出てきた! しかも、なんかかわいいし」
『……かわいい?』
ルミノスは首を傾げる仕草をした。「かわいい」と言われたのは、恐らく初めてのことだろう。
「うん。なんか、子猫みたい」
波瑠斗は立ち上がって、ルミノスに近づいた。
手を伸ばそうとするも、影の体は霧のように手をすり抜けた。
「触れないの?」
『我らは実体を持たぬ。契約なくして、物質世界に干渉することはできぬ』
「契約?」
『召喚者と契約を結び、我らは汝の望みを叶える。その代償として──』
「あ、わかった。魂でしょ? 本に書いてあった」
波瑠斗はノートを取り出すと、鉛筆で何かを書き始めた。その字はかなり拙い。
「僕、そういうの嫌なんだ。契約って大人がよくやっているよね。僕はさ、誰かに命令されるのも嫌だし、誰かを縛るのも嫌なんだよね」
波瑠斗は書き終わるとその紙を破り、ルミノスの前に差し出した。
そこには、こう書かれていた。
「じゆうにしてあげる」
『……なに?』
「君は、自由だよ。僕が召喚したから出てきちゃったけど、別に何も命令しないし、魂もあげない。だから、好きにしていいよ。これが僕とキミとの『契約』だよ!」
波瑠斗はにっこりと笑った。
「じゃあね。僕、帰る。健太たち、心配してるだろうし」
波瑠斗は懐中電灯を持ち、教室を出ていった。
理科室に残された悪魔ルミノスは、宙に浮かんだまま波瑠斗が残した紙を見つめていた。
紙は円の中に落ちていた。ルミノスの影の手が、それに触れる。
契約はその瞬間に「成立」した。
誰も知らない形で。

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